「金しか狙っていない」。女子レスリング・藤波朱理の軌跡
中学2年から一敗もすることなく103連勝。超越したスピードとテクニックを持つ藤波朱理は、パリ・オリンピックでの金メダルだけを狙っている。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.841〈2022年9月8日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.841・2022年9月8日発売
練習は、ただ単にやるだけじゃダメ
日本体育大学世田谷キャンパス。レスリング部の女子はここを本拠地にして日々、研鑽を積んでいる。この日もマットに軽快なフットワークの音が響く。
そのなかで、ひときわ目につく選手がいる。身長164cm、長い手足を使い、とてつもない高速タックルで相手をマットに沈める。相手に背後に回られたり、脚を取られたり、ということは一切ない。
練習後に一度もポイントを取られなかったですねと問いかけると、恥ずかしそうに「はい」と、小さな声で答えた。今、女子レスリングの53kg級で最強と呼ばれる、藤波朱理である。
練習時に藤波とスパーリングをしていた相手は決して弱いわけではない。名門・日体大のレスリング部には19人の選手が揃うが、誰もが第一線で活躍する選手だ。その選手が面白いように転がされるのだから、驚いてしまうのである。ただ、果たしてこれで練習になるのであろうか。
「練習は、ただ単にやるだけじゃダメだと思っています。自分がいろいろと研究している技を、ひとつひとつ試しながら行う。その繰り返しが大切だと考えているんです」
伊調さんは、やっぱり強いです
藤波は中学2年生の9月の大会から公式戦で一敗もしていない。通算103連勝である。これは、吉田沙保里の206連勝、伊調馨の189連勝に続く記録であり、まだ継続中だ。
さらに、2021年に開催された世界選手権では、相手に1ポイントも取られることなく4試合すべてテクニカルフォール(試合時間内に指定されたポイントを獲得して勝つこと)で優勝を果たしている。並の選手では歯が立たなくて当然なのである。
ただ、藤波に練習をつけることができる選手は身近にいる。それが、伊調馨だ。女子個人選手として史上初めてのオリンピック4連覇を成し遂げた彼女は今、外部コーチとして日体大の女子を指導しているのだ。
「強い人とやるときは、試合を意識してやっています。伊調さんは、やっぱり強いです。体幹が強いし、バランス感覚もすべてがスゴイ。自分はまだまだだなって思っています」
最初は遊びの延長線という感じだった
父・俊一さんは、ソウル・オリンピックの最終選考まで残った強豪であり、これまでずっと藤波のコーチを務めている。7歳年上の勇飛さんも元レスリング選手。藤波も4歳からこの競技を始めている。だが、最初は遊びの延長線という感じだった。
「全然、本気じゃなかったです。楽しみながらやっていましたね。兄も同じ場所で練習していたのですが、すごく厳しくて、それを見てかわいそうだなって思っていましたから」
それがガラリと変わった。小学生のときに、どうしても勝てない選手が現れたのだ。いつも大差で負けてしまう。これが本当に悔しかった。
「本気で勝ちたいと思いました。その人に勝つためだけにやりたいって気持ち。父にも言いました。“よし、がんばろう”と言ってくれて、そのときから特訓が始まりました」
父は三重県のいなべ総合学園高校で教員をしながら、レスリング部を教えていた。小学生だった藤波はここに通うようになった。中学生も参加していたので、初めはそれに交じって練習した。しかし、彼女自身が中学に上がるころになると、高校生とも対等にスパーリングができるようになっていく。
子供のころは歳が2つも離れていれば、体格はかなり違ってくる。そんな人たちを相手に練習をしていれば、強くなるのも当然かもしれない。しかも、藤波も言った通り、毎日が“特訓”なのである。もちろん実力も上がっていった。
「中学校3年生のときにクイーンズカップで優勝して、初めて世界へ出ることができました。アジア選手権(U15)も勝てて、世界カデ(ット選手権)でも優勝できて、それで自信がつきましたね。
東京オリンピックは年齢制限で出場できないのがわかっていましたから、ずっとパリ(・オリンピック)しか見ていませんでした。どうせ出場するなら、国内よりも海外がいいですよね。パリ行きたいなって感じです(笑)」
東京オリンピックの53kgには、向田(現・志土地)真優が出場した。向田は藤波と同じく三重県の出身。身近に存在する憧れの先輩の一人でもあった。もちろん藤波は試合を見た。向田は見事金メダルに輝いた。
「今までとは見方がちょっと違いましたね。リオとかロンドンのときは、“すごいなぁ、こんな人になりたい”という想いしかなかったのですが、東京はもっと身近に感じました。出場している選手を見てこの人に勝ちたい、自分だったらどう戦うだろうと思って見ていました」
筋肥大をさせないように、瞬発力をウェイトで鍛える
高校を卒業した藤波は、父の母校である日体大に進学する。このとき父は娘の夢のため34年間務めた教員を辞し、誘われていた日体大のコーチの仕事を受ける。そして、親子二人は大学の近くにアパートを借りて、練習の毎日を過ごしているのだ。
「父は月の半分はこっち(日体大)にいて、あとの半分は三重でコーチをしています。だから、父がいないときは羽を伸ばします。ずっと一緒にいると、やっぱりイヤになるときもありますよ(笑)。ただ、私のことを私以上に知っていると思うし、すごく感謝しています」
羽を伸ばすと言うが、そんな時間はほとんどない。練習は毎日午後にあり、内容はハードの一言だから、終われば帰って寝るだけだ。それに午前中もランニングを主とするトレーニングがある。
練習メニュー
この日の練習はランニングに始まり、馬跳びや前転、後転、開脚前転、開脚後転などさまざまなバリエーションのマット運動を行った。その後、ステップワークへ。コーチの笛の合図に合わせて、瞬間、瞬間で止まり、動く。すばやい反応と動作が求められる。
タックルの練習、打ち込みなどを経て、スパーリングに。軽快なステップと高速タックルが冴える。長い休憩を挟まないから、体力も自然に培われていくのだろう。
300m、600mといった距離を、インターバルを挟んで全力で何本も走る。加えて、週2回のウェイトトレーニング。これは、大学に入ってから、トレーナーについてもらい本格的に始めた。
「自分の弱い部分を集中的にやってもらっています。体重が増えると困るので、筋肥大というより、筋力アップを意識しています。重量を上げるのではなく、瞬発力を高めるようなトレーニングですね。具体的にはスナッチやハイクリーンなどです」
ただひとつ、困ったことがある。食べることが好きなのだ。「自分の限界がわからない」ぐらい、たくさん食べることができる。しかし、欲にまかせて食べるわけにはいかない。体重制限がある競技なのだから。
「揚げ物とかは本当は好きですが、食べないです。なるべく魚を摂る。ただ、週に1回だけ好きなものを食べます。今、ハマっているのがかき氷。クリームとかあんこが乗っていたりするのでカロリーが高いですが。
試合前の減量は4kgぐらい。食事の量は変えませんが、1か月前から質を求め直します。1週間前になるともう脂肪にはならないので、逆に質量が軽くてカロリーが高い食事に変える。
落とし方も研究していますね。減量のコツはユーチューブで大食い動画を見ること。それで食べた気になるというか、終わったら絶対食べようって気持ちになる。普通、そんなのを見たら余計食べたくなると思うじゃないですか。でも、私は見ればそれですっきりするんです」
はっきりと目標に掲げているパリ・オリンピックまで2年。実は、東京オリンピックで優勝した向田とは、まだ一回も戦ったことがない。
「すごく楽しみです。やっぱり彼女を倒して、自分がオリンピックに出場したいと思っている。子供のころからあの人みたいになりたいと憧れていたけど、今は絶対に倒したい存在。勝つ自信はあります。
あと2年ですが、それだけあったらまだまだ成長できると思うし、悔いがないように一日一日全力でやるしかない。これから出場するすべての試合に勝って、オリンピックで金メダルを獲る。それしか狙っていないんです」