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アマ10冠を成し遂げた選手は、それでも五輪には手が届かなかった。鳴り物入りで入ったプロの世界の階段を今、一歩ずつ上っているのだ。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.810〈2021年5月13日発売号〉より全文掲載)
藤田健児のアマチュア時代は、圧倒的な強さであった。高校時代はインターハイ3連覇、全日本選手権は3度の優勝など、なんとアマ10冠を達成した。これほどの成績を残した選手はほとんどいないであろう。最強アマだったといっても過言ではない。
今年3月、藤田は初めてプロの舞台に立った。フェザー級6回戦である。対戦したのは木村元祐。木村はそれまで10戦3勝ながら、これぞプロという戦術を駆使する選手で、つまりは曲者。緩急を生かした攻撃や、予想もしないパンチを仕掛けたりと、相手にとってはなんともイヤなスタイルなのである。
藤田もかなり手こずったが、慎重に手数を重ねていき、4ラウンドにダウンを奪い、6ラウンドにレフェリーストップで試合を決めた。藤田がこの試合を振り返る。
「久しぶりの試合だったので、最初は硬さがありました。ただ、後楽園ホールは戦い慣れた場所だったので、緊張はなかったです。対戦相手の木村さんは、メチャクチャやりにくかったです。アマだと反則を取られたり、レフェリーが止めてくれたりする場面でも、プロだとなかなかそうならない。そこに、戸惑いはありました。あまり出来はよくなかったのですが、勝ててホッとしています」
プロとアマの違いはいろいろある。まずはラウンド数。アマは3ラウンドと決まっていて、プロは4~12ラウンドだ。グローブの重さもアマは10オンスだが、プロは8~10オンス。ヘッドギアを着けるか否かも大きな違いだ。ただ、多くの人がアマよりプロが上だと思っているようだが、決してそうではない。藤田もそれだけは言っておきたいと、真剣に語る。
「確かに、グローブが軽くて薄いので、怖さはありました。それで、見る時間も多くなってしまった。距離取って、リスクを少なくしたいと思っていましたから。でも、アマとプロを単純比較はできない。同じ陸上でも100mとマラソンとどっちが速いか? と聞かれて、答えられる人っていますか。それと同じで、まったくの別競技なんです。僕は大型新人なんて扱ってもらっていますけど、違う競技で戦っていくわけですから、上り詰めることを確約されているとは、まったく思っていないですね」
父の和彦氏(2017年に死去)は武道家で、極真空手道場と格闘技ジムのドリーマージムを主宰。長男の和典氏は元OPBF東洋太平洋フェザー級暫定王者、長女の典子さんは極真空手世界3位。次女の翔子さんは極真会館全日本ウェイト制軽量級準優勝。そして次男の大和は現在DEEPで活躍する総合格闘家。
こんな家庭で三男として育った藤田だから、1歳の頃から極真空手を学び始めたのは当たり前だった。物心つく前から格闘技は身近な存在。なら面白いと思い始めたのはいつ頃か、と尋ねると意外な答えが返ってきた。
「格闘技は大嫌いでした。ずっとです。全然、やりたくなかった。父親は何も言わなかったですけど、上の2人の兄が“この家で格闘技は強制だよ”って言うんですよ。小学校1年のときに、日韓のワールドカップがあって、それに影響されて友達と遊びでサッカーしていたんです。それで、中学の部活はサッカーをやりたいと言ったら、家族会議みたいになって、“サッカー、ありえない”って。おかしいですよね(笑)」
中学からはボクシングを始めるようになった。ジムに来る人とスパーリングをしたりもしたが、基本は兄弟で黙々と練習を重ねていった。ただ、そのときの藤田の心境も“格闘技はイヤ”。仕方なくやっている感じ。それでもここまで成長したから大したものだが、今のボクシングスタイルはこの頃に生まれたようだ。
「僕はあんまり打ち合ったりしないんですよ。というのも、根本に殴られたくないっていうのがあって(笑)、殴られるのは痛いからイヤだし、殴るのもあんまり楽しいことじゃない。昔から、ずっと殴り合いは嫌いということが、今の僕のボクシングのもとになっているんですね」
ボクシングのスタイルは大きく2つに分かれる。1つが接近で打ち合うことが得意なファイタータイプ。そしてもう1つが、距離を置いてフットワークを使い、ヒットアンドアウェーを狙うボクサータイプ。殴り合いの嫌いな藤田は、自然とボクサータイプへと育っていったのである。
しかし、地元岡山の倉敷高校に入るとボクシングに対する想いは変わってくる。相変わらず兄との練習に明け暮れていたわけだが、高校の名を借りて出場する大会で勝つことが、大きな目標となった。目指すはインターハイ。明確な目標にモチベーションは上がり、3連覇を果たすのだ。そして、大学進学ということになる。
「地元の大学に通い、すぐプロになろうかなと思っていたら、家族の話し合いで、兄はプロで、僕はアマで世界一ってことになってしまったんです。その頃、北京オリンピックに地元の清水聡さんが出場して、オリンピックのボクシングという存在を初めて知った。それで、ここをまずは目指してから、プロに行っても遅くないと思うようになりました」
拓殖大学に進学すると、プロとスパーリングする機会も増えた。チャンピオンクラスともやってつかんだ感触は「全然やれる」というものだった。そして、自衛隊体育学校に入り、日本のトップアマと拳を交え、さらに実力を上げていく。
だが、悲しいかなオリンピックには縁がなかった。2006年のリオデジャネイロの代表予選では、微妙な判定に泣いた。そして、2020年の東京の代表選考会では、決勝で敗れてしまう。ここから、もし次のパリを目指したとしたら、29歳になってしまう。もちろん29歳のプロボクサーなど掃いて捨てるほどいる。しかし、アマでオリンピックを狙うという年齢ではないだろう。
プロ転向を決断。デビュー戦を迎えたとき、藤田は27歳になっていた。
ただ、アマ時代の経験、それは藤田にとって大きな力となっている。
「高校3年のときの日本代表の合宿なんかでは村田(諒太)さんや清水さんがいて、やっぱり違うなと思いましたし、同級生の(井上)尚弥にも刺激を受けました。自衛隊は練習環境が最高だったし、大学とは数段レベルが違った。これらの経験は自分の知識の引き出しを多くしてくれたし、そこで培ったものを、これからプロで生かしていきたいです」
アマで最終試合を終えたあと、プロデビュー戦までに1年半の空白があった。鳴り物入りでプロ入りした怪物の相手は見つからず、新型コロナも追い打ちをかけた。だが、この時間が今に繫がったと藤田は言う。
「プロに適応する時間だったと思います。試合のテンポも違いますし、オフェンス、ディフェンスも違う。それを修正していけた。これが大きかったと思います。ただ、焦りはありましたけど(笑)。27歳ですしね」
ジムでの藤田は真剣そのものだ。ロープに始まり、シャドー、ミットと続くなか、大粒の汗が流れる。3分1ラウンド。間の1分のインターバルで、やっと少し笑みがこぼれる。この先、長く対峙しなくてはならないプロの道と真摯に向き合っている。
「村田さんにもよく“オレも27歳でデビューだよ”って言われるんですが、スタートラインが違う。片やオリンピック金メダルで、デビュー戦は日本チャンピオン(柴田明雄)が相手ですから。僕は一試合一試合に集中していくだけ。それでも30歳ぐらいまでに、何かカタチになっていればいいと思っています」
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.810・2021年5月13日発売