「美しさと速さを両立させたい」競歩選手・山西利和
2019年に早々とオリンピック代表を決めた。地道にコツコツと積み上げてきたことが、社会人1年目にようやく花開いたのである。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.809〈2021年4月22日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.809・2021年4月22日発売
想像を絶する“歩く”過酷さ。
競歩はスポーツのなかでも、もっとも過酷な競技の一つであろう。一度でもレースを見た人ならわかるが、その光景は凄まじい。歩道にしゃがみ込んで、肩で息をする選手。仰向けに倒れ込んでいる選手もいる。そして、脱落した選手の傍らを淡々と歩き続ける選手。
“とてつもない競技ですね”と、山西に言葉をかけると彼は、「距離や時間が長いからマラソンに似たところはありますね。何が起こるかわからない、不確定要素が多いということは言えます」と、サラリと答える。
しかし、マラソンでは選手がバタバタと倒れることはそれほどない。やはり“歩く”ということが、厳しさに繫がっているのであろう。山西が主戦場にしている20km競歩では、トップ選手ならば1kmを3分50秒ほどのペースで歩く。このペースでフルマラソンを走れば、2時間40分ちょっとという計算になる。
もちろん、このペースで40km以上を歩き続けるのは難しいかもしれない。それでも一般ランナーの憧れであるサブ3を歩いて成し遂げてしまえるのだ。ある意味、超人といえよう。
レースを動かせるようになってきた。
さて、山西は2019年にカタールのドーハで行われた世界選手権で金メダルを獲得し、東京オリンピックの代表を手中に収めた。このレースがまた過酷だった。気温32度、湿度77%という条件のなか午後11時30分にスタート。スタート時間を朝にするとあまりにも高温になるための措置だった。
このレースで山西は7kmを過ぎたところで1人飛び出し、そのまま独歩を続け1時間26分34秒のタイムでフィニッシュ。圧倒的で完璧な勝利と言えるだろう。だが、彼の考えは違った。
「2位とはたかだか15秒差ぐらいなので、展開的には先行することにはなりましたが、薄氷の勝利というか、本当にギリギリだったと思っているんです」
ただ、自分のペースでレースを進め、勝利したのは事実である。これは、なかなかできることではない。他の選手と駆け引きして、展開を考えて争っていくのが普通だからだ。7kmというまだ半分にもならない距離で飛び出すというのは勇気がいるだろうし、リスキーでもある。だが、山西はやってのけた。
「ドーハの直前までは、レースの流れに乗りながら、勝負どころを見極めて仕掛けていくタイプだったのですが、ここ1、2年でちょっとずつ変わってきました。自分から能動的にレースを動かすようなことにトライしていて、少しカタチになっているという印象です。
地力がない選手としてレースに臨む場合、細い勝ち筋を手繰り寄せないといけない。だから、集団の中で力を溜めて、ここというときにすべてを懸けていくしかない。自分の場合は少しずつ力がついてきたというか、ベースが上がってきた。それだから20kmというレースをもっと自由にコーディネートできるようになってきたし、自分でレースを動かせるようになってきたと考えています」
中学までは無名選手。高校から競歩へ。
並外れた運動能力を持つ。山西はそういう少年ではなかった。水泳教室に通ったり、友達と野球をしたりと、ごくごく普通の子供だった。ただ、一つの出来事が彼の進む道を変えた。小学校4年生のときに、グラウンドを1周するごとにマスを進んでいくすごろくのような紙が配られた。マスを埋めたい一心で、授業が始まる前に毎日走るようになった。
「ひたひた走って練習して、積み上げていった結果、前の年より走りのタイムが伸びたんです。楽しかった。今、振り返れば、それが原体験というか、スタートだったと思います」
山西の座右の銘は“継続は力なり”。子供の頃から、この言葉通りに地道に積み上げていくことの大切さを実感していたのであろう。
中学は京都の長岡京市にある長岡第三中学校。陸上部に入り、ここで初めて本格的な指導を受けるようになる。800m~3000mまでの種目に重点を置いて練習した。だが、県大会までは進めないぐらいの実力。それでも「真剣にやる楽しさ、長距離を走る楽しさの両方を、指導されるなかで先生に教えていただいた」ことで、京都市立堀川高校に進学しても陸上を続けることを決める。そして、ここで競歩と出合うのである。
「先輩がやっていたんですね。ちょっと興味があるかなっていう気持ちで、練習を希望したんです。そしたら顧問の船越(康平)先生が次の日からメニューを持ってきてくれて」
競歩を始めて2か月で京都府の新人戦で優勝する。ただ、競歩は高校からの種目なので、「素人の集まりの中でたまたま勝った」というぐらいのものだった。しかし、続く近畿大会でも4位に入賞、2年時のインターハイでは2位になる。そして、3年のときには初の国際大会である世界ユース選手権と、インターハイの2つで見事優勝を飾ったのである。
「2年生のときにインターハイで2番になったのが大きかったです。そこからの1年間、先生にさまざまなご指導を受けながら、優勝を目指してがんばりました。だから達成できたときはホッとした気持ちが強かったです」
大学は京都大学。文武両道を地で行くような生活を送った。ただ、日本インカレやユニバーシアードでは結果を残すが、日本代表に選ばれることはなかった。日本の競歩は世界記録を持つ鈴木雄介など、実力者揃い。山西が日本代表に選ばれたのは、愛知製鋼に入社して1年目の19年になってからだった。そして、このチャンスを見事に捉えて、オリンピック出場を決めたのだ。
反則しないで速くなる。それを探求するのが楽しい。
競歩が過酷な競技であることは前述したが、その厳しさのひとつの要因となっているのが反則である。2種類ある。ひとつがロス・オブ・コンタクト。両足が同時に地面から離れてしまう反則。
もうひとつがベント・ニー。こちらは前足が接地の瞬間から、垂直の位置になるまでの間に、膝が伸びていない状態があるとき反則となる。審判がいて、これらの反則をするとペナルティが与えられる。失格を宣言される場合もあるのだ。ただ、山西にとって、この競歩だけが持つ特殊性はマイナスではなくプラスに働いているようなのだ。
「反則を犯さないで速くなる。それを探求していくのが楽しいんだと思っています。わからないことでも、自分なりに仮説を立てて、トライ・アンド・エラーを重ねていく。それが、少しずつ自分の中で腹落ちしていって、これがおそらく正しいんだろうなというところが見つかってくる。ルールによって自由度が下がった動きで、より最適なものを探し続けていく。そうやって積み上げていくことが自分の性格に合っていたのではないかと考えています」
多いときで1日に50kmも歩く。その練習の成果を見せるオリンピックは、もう直前まで迫っている。今、山西は何を考えているのであろうか。
「自分がどうなりたいとか、自分がどう見られたいとか、そういう感情はあまりないんです。自分のことはパフォーマンスを世界に届ける媒介だと思っています。だから、よりよいものを作れればいいし、それが表現として見る人に届けば、アスリートとしてひとつの終着点になるのではと考えています。
もちろん、相手もいますし、勝負でもありますから、勝ち負けの土俵から両足を離してしまってはいけない。かといって両足をつけたままでも面白くない。勝ちだけにこだわると、いざ勝ったときにそれで終わり、後に何も残せなくなりますから。片足を残したままで、もう一方の足で何かできるといいなというのが今の思いです。まだまだやれることはたくさんあります。
自分にはこれが強みだという部分がない。どれを取ってもピカイチではないんです。だから、それぞれのところを伸ばしていくのが基本方針ですね。技術面に関していえば、鈴木雄介さんのような完成された動きを目指していきたい。鈴木選手のフォームはシャープで無駄がない。無駄のない所作は見た目のきれいさにも、スピードにも繫がっていく。
だから、美しさと速さを両立させるように、練習していくことが大切になってくるんです」