「競輪で鍛える肉体はモーグルの活躍にも活かせると思います」競輪選手・原大智
平昌オリンピックで銅メダルを奪取した彼は、昨年、競輪選手としての厳しい道を歩み始めた。さらに北京の冬季オリンピック出場をも狙う。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.800〈2020年11月26日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
初出『Tarzan』No.800・2020年11月26日発売
都民では初となる、冬季メダリスト。
2019年のまだ春浅い頃、ひとつのニュースが話題を呼んだ。それが、原大智の競輪への挑戦であった。原は平昌オリンピックでスキーのフリースタイル競技、モーグルで日本人初の銅メダルに輝いたトップアスリートである。モーグルは、それまで里谷多英、上村愛子など女性陣の活躍が話題になってきたが、男子はなかなか上位にランクインできなかった。
原はその状況に初めて大きな風穴を開けたといえよう。その彼が新たに競輪への挑戦を始めたのは一体なぜか。多くの人が驚いたチャレンジである。その理由を原はまず語ってくれた。
「フィジカルトレーニングのトレーナーさんに、2、3年前から競輪をやらないかと誘われていたんです。人のカラダをチェックするのが天職みたいな人ですから、僕が自転車に向いているんじゃないかと思ったみたいで。今の僕の師匠(和田圭選手=競輪界には師弟関係がある)も、そのトレーナーの指導を受けているのでわかったんでしょうね。
ずっと断っていたんですが、あるとき師匠を紹介されて、一緒に自転車に乗って走る機会があったんです。師匠は競輪がすごく強くて、身体能力だけでなく、その力のすべてが魅力的に映った。僕も一応、ひとつのスポーツを極めてきたわけですから、体力的には自信があったのに、全然ついていけない。心の底から悔しかったので、“じゃあ競輪やってやろう”という気持ちになったんです」
勝ち気。負けず嫌い。これほど原を表現するのに適した言葉はない。その性格は、モーグルで日本のトップに躍り出る原動力にもなった。生まれは東京都渋谷区だが、東京生まれのスキーのトップ選手など前代未聞である。
両親の趣味がスキーで、シーズンになると週末はよくスキーに出かけたという。小学校6年生のときモーグルでオリンピックに出ると決意し、冬休みは長期間スキー場で過ごした。高校でカナダに渡りモーグルの腕を磨いた。と記せば頂点を極めておかしくないと思う人もいるかもしれないが、雪国育ちの選手とはもともとの環境に大きな違いがある。その証拠にほとんどのスキー選手が冬場たっぷり雪が積もる場所で平日もスキーをして育っている。
「冬季のメダリストは、都民では初でした。オリンピックでメダルを獲れたのは、自分を信じて疑わなかったからですかね。ナショナルチームに入って、ワールドカップに出場して、オリンピックでメダルを獲る。モーグルをやろうと決めた小学校6年生のときから、ずっと思い続けていましたから。進む道はそれ以外ありえないとも考えていましたね」
信じて努力を続ければ、目標は必ず達成できる。
話を競輪に戻そう。原は昨年の4月に日本競輪学校の生徒特別選抜入学試験に合格し、5月に養成所に入所した。この養成所は厳しいことで有名だ。モーグルで自由に自己表現してきた原にとって、規律の厳しい集団生活は大変だっただろう。
「一言でいえば、もう一回やりたくはないって感じですね。細かいルールがいっぱいあって、時間も分単位で決められている。携帯の使用も禁止ですし、自由になれる時間は外出日だけでした。
自転車は好きだけどロードをちょっと乗った経験があるだけですから、競技経験者と比べたら成績が全然よくなくていろいろな重圧と闘った一年でした」
養成所に入ってくるのは、小さい頃から自転車競技をやったり、競輪選手を目指して練習を積んできた人がほとんど。経験の差は大きかった。養成所では3回の記録会があるが、1回目の成績は200mが71位、400mは72位で最下位。1000mは70位、3000mは48位と散々なものだった。
2回目の記録会では1000mを1分13秒以内で走らなくては基準をクリアできないのだが、結果は1分13秒20。強制退所の危機に陥ってしまう。
「追試でクリアできたのですが、あのときは“やるだけやってダメだったら競輪のセンスがない”と思っていました。1分13秒が切れないのなら、この先のプロ生活なんて望めない。記録が出なかったらきっぱりあきらめるつもりでした」
どうにか退所を免れて、訓練と研修に明け暮れる毎日に戻る。すると、徐々に成果が表れ始めた。3回目の記録会は200mで55位、前回追試を受けた1000mで60位と順位を上げ、養成所を卒業してプロになることができたのである。
「苦労して当然なんですよ。今も苦労は続いていますし、あと何年か苦労が続くでしょう。それはモーグルでも経験してきたことです。モーグルを始めた頃も、大会で予選落ちばかりでしたし、ワールドカップに出てもなかなか勝てなかった。だから、周りの人が競輪ですぐ結果を求めても、僕は気にせずじっくりやります。
本来、遅咲きなんですよ。モーグルと競輪では、そもそもカラダの使い方がまったく違います。モーグルは落下していくなかで、いかに力を抜くかがポイントとなる。ところが競輪は、(ペダルを)踏み続ける力が必要。だから、モーグルで培ったフィジカルで、競輪に活かせることがほとんどないんですよね」
今年、プロデビューを果たし、5月と6月に1戦ずつ走った。これは新人だけで行われるルーキーシリーズで、7月にようやく先輩たちと競う本格的なレースに入っていった。競輪では自転車に乗る体力、技術の他に駆け引きが大きくモノをいう。
選手は空気抵抗を避けるために隊列を組み、レースを有利に進めようとする。これをラインと呼び、たとえば9枠あれば、3人のラインが3本できたりする。このラインを一つの集団としてレース終盤まで駆け引きをしていく。もちろん、最終的には個人の戦いになるのだが、それまでは共同戦線ともいえるのだ。
「養成所では常に全力で走ることを求められ、駆け引きがなかったんです。だから、先輩とラインを組んだときは戸惑ったし、パニックにもなりました。当たり前ですよね、わかってないんだから。一応、頭の中では作戦を立てるのですが、その通りになることはまずない。最初のうちは頭が空になって、予選を突破することすら難しかったです」
競輪の勝負は経験を積み重ねて、少しずつ学んでいくしかない。8月16日にいわき平競輪場で初めての優勝を果たしたことで、多少の自信がついたのかもしれない。
「今では、予選はほとんど突破できる感じですね。準決勝になるとなかなか勝てないという詰めの甘さはあるんですが。とにかく、展開を読めるようにするのと同時に、技術も上げていかなくてはいけない。ペダリングが悪いからトップスピードも上がらないし、ダッシュ力もないんです。
何より、自分の長所を見つけていない。それが明確にならないと、どう戦えばいいのかわからないですから。この先まだまだやるべきことがたくさんあるんですよね」
しかし、自転車を始めて1年と少しでプロの競輪で優勝するほど成長した逸材だ。これからも、どんどん成長していくだろう。
レースの後は酸欠で、頭痛が起きることもある。
さて、現在の原はどのような生活を送っているのだろう。競輪は365日、全国いずれかの競輪場で開催されていて、開催日数は2~6日間である。選手たちは、レースの開催地を渡り歩くことになる。
「1か月で普通は2開催、多いと3開催に出場します。それ以上はカラダが持たない。レースで走り終えた後は、カラダに力がまったく入らないし、酸欠で頭痛が起きることもあります。開催日の間に移動日があり、他はずっと練習日です。
軽いギアを使って回転数を上げたり、逆に重いギアを長く踏んだりとか。師匠と一緒にやるときもあります。競輪はスプリント競技ですから、短距離を多めに行う感じですね。ただ、月々でレースの予定が変わってくるので、練習の頻度や強度を聞かれても、答えられないんですよ」
もちろん、ウェイトトレーニングも行う。ただ、モーグルのときからのトレーナーには、今は主にカラダの状態を見てもらうだけで、トレーニングの内容は自分自身で考えて実践しているようだ。
「パワー系、瞬発系、筋持久力系とすべてやっていますね。これはモーグル時代で学んだことを生かしながら、工夫して行っています。
一つ重要だと思っているのはスナッチですね。実戦に役立つカラダ使いが身につきます。スクワットで細かい筋肉と大きな筋肉を同時に鍛えるのも大事です。僕の中でのトレーニングの目的は、ケガをしないように強いカラダを作ることです」
原は今、競輪に重点を置いているが、モーグルをやめてしまったわけではない。いわゆる二刀流で、2022年に北京で開催されるオリンピック出場も目指している。
「とりあえずモーグルには貯金があると信じて、今は競輪の時間を多く取っています。モーグルはカラダの感覚を戻し、短期間で集中してレベルアップしていきたい。そして北京のメダルを集大成にしたいんです。あと1年ちょっとだから、二刀流で全力を尽くして、北京が終わったら競輪のS級(原は今A級でS級はその上のランク)を目指してがんばりたいと思っています」