スピードスケート・新濱立也「周囲を意識しないほうが、いい結果が出るようです」
世界選手権スプリント優勝、ワールドカップ総合優勝でシーズンを終えた。2022年の北京オリンピックで狙っているのは金メダルだけと断言する。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.786〈2020年4月23日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
初出『Tarzan』No.786・2020年4月23日発売
男子選手の注目株。
前回の平昌オリンピック前後、日本のスピードスケートの話題は女子選手に集まっていた。
小平奈緒、高木美帆の両エースの存在が際立っていたし、チームパシュートの圧倒的な強さもあった。だが、平昌から2年経って、男子も目覚ましい活躍を見せてくれる選手が揃いつつある。その筆頭が新濱立也だ。
彼は選手としては遅咲きといえる。シニアの日本代表に初めて選ばれたのは、高崎健康福祉大学の4年生だった2018年5月。その後まもない18-19年シーズンに、とてつもない力を発揮したのである。
19年にアメリカのソルトレークシティで開かれた、ワールドカップファイナルの決勝。12人で行われたこの戦いでは、まず、村上右磨(彼も次代を担うエースの一人)が、加藤条治の持つ日本記録を0.1秒更新する34秒11を出した。
次の滑走者が新濱だ。彼は33秒83で、なんと世界記録を樹立してしまうのである。過去、新濱の他に33秒台で滑った選手はたった一人、ロシアのパベル・クリズニコフだけだった。しかし2分後、そのクリズニコフが33秒61を出し、世界記録を塗り替えた。新濱は、たった2分間の世界記録保持者になったわけだ。
驚きなのは、ここからのドラマ。500mは2日間で2回滑って結果を競うのだが、新濱は翌日の滑走でも33秒79というタイムで観客の度肝を抜いた。2レース連続で33秒台を出した選手は史上初だ。
「代表合宿に合流したとき、監督やコーチから33秒台が出せると言われたんです。自分としてはあまり成長している実感がなかったし、そんなタイムは夢のまた夢だと感じました。絶対無理だって受け流す感じで話していたんです。だから、続くシーズンの最後の最後でそれが実現したのにはうれしいというより、驚きのほうが大きかった。
なんで33秒台が出たんだろうなって不思議な感覚でした。滑っているときは、いつもより遅いと感じていたんです。前の組で滑った村上選手が日本記録を更新したのを見ていたので、その記録よりちょっと遅いと思って滑っていた。ゴールしたとき33秒台ということにまったく気づいていなくて、本当に実感がなかったですね」
こうして春にシーズンが終わり、秋に19-20年シーズンが始まると、もちろん新濱に期待がかかる。何といっても33秒台を出し、世界記録を一瞬でも自分のものにした男なのだ。しかしワールドカップ前半戦、なぜか実力を発揮できずにいた。
「前のシーズンは、まだシニアの経験も浅いので、ただただ挑戦者の気持ちで、目の前のレースを全力でやるという感じだったんです。それで、好タイム、高順位が出ていた。
今シーズンは前半戦、10~12月ぐらいまでは正直、まわりからの期待に重圧を感じる部分があって、思ったように自分のレースができませんでした。精神的に苦しんだんですけど、1月から気持ちを切り替えようと考えた。もう、周囲のことはどうでもいいなって。
応援してくれて、期待もしてもらっていることはありがたいけど、自分自身それに応えなければと意識しているうちは結果が出せない。それよりも、以前のように自分のレースをすることが第一と考えるようにしたんです。それが、後半戦うまくハマりました」
彼の言葉通り、今年に入って快進撃が始まる。3月に行われた世界選手権では、500mと1,000mのタイムを競うスプリントで優勝。これは、日本人として黒岩彰以来33年ぶりの快挙だ。ワールドカップでは500mで3勝を挙げ、総合優勝を果たした。だが、新濱はそれほどうれしそうではなかった。
「まったく目標に掲げていなかったタイトルでした。世界選手権では、1,000mは苦手だから500mだけ最高のレースをしようと考えていた。だから、33年ぶりと言われても実感はなかったんです。ワールドカップの総合優勝も、自分が強く望んだ果てに辿り着いたわけではないから、実感というか、してやったという満足感がないんですよね」
高2まで活躍できなくて、競技を断念しそうだった。
新濱を一言で表現するなら“天才”だろう。それゆえに味わう挫折もあった。最初にスケート靴を履いたのが3歳のとき。小学校に上がると地元・北海道の別海町のスポーツ団に入って本格的にスピードスケートに取り組み、すぐに頭角を現した。というより、別格だった。
「レースの途中で転んでも、大会記録で優勝したことがある」というほど。ただし、4年生になったら優勝が遠のいた。才能だけで勝利してきた少年は努力を怠っていたのだ。周囲の努力に敵わなくなった。
「負けてばかりで、全然楽しくなかったです。小学校6年生のとき親にスケートやめたいと話したら、中学校3年生まで続けろ、と。それで、しぶしぶ続けた。本当にやめたくて、中1まで練習も適当でした。
ただ中2になって、あと2年で終わるなら、ちょっとだけがんばろうかなと思い始めた。それで、全中(全国中学生スケート大会)で6位に入り、少し努力したら勝てる見込みがあるんだなと気づいて、高校でも続けようと考え直したんです」
高校に入っても、なかなか結果が出ない。それでも努力は続け、スケートをやめたいとは思わなかった。
「ほとんど負けばかりだけど、シーズンに1回ぐらいポロッと勝てたりする。そのときは瞬間的に面白いし、楽しい。そういう感覚を味わうだけで、もう少しやれるかもしれないと続けることができたんです」
安定しては勝てない。だが、自分のココロとカラダがピタリと一致したときは、爆発的な強さを発揮する。おそらく才能のなせる業で、新濱はこれにすがって競技を続けたのである。結果、高校3年生になってようやく花開く。全国高等学校スピードスケート選手権の500mと1,000mで優勝し、2冠に輝いた。
「実業団に入るには高校2年でいい結果が出てないと、声をかけてもらえない。2年まで結果はゼロだったので、もう終わったと思っていました。競技を続ける道がなかった」
そんなとき、才能を見込んで声をかけたのが、高崎健康福祉大学の入澤孝一監督だった。「勉強は苦手で、競技との両立は無理」と考えていた新濱に進学を勧めたのだ。監督がいなければ、この稀有なスピードスケート選手の活躍はなかったろう。
課題を克服できれば、世界記録も十分狙える。
大学に進んでからが大変だった。といっても、大変なのは監督のほう。新濱は他の選手とは違って、指導をすんなり受け入れないのだ。
「監督は論理的に話してくれるんですが、自分は理解できないというか、納得できないことが数多くあって、やりとりは本当に密でしたね。というより揉めました(笑)」
それに対し、監督はこう語る。
「新濱はすべて感覚なんです。たとえばテニスでコートの隅にボールを打ち込むとき、カラダをこうひねって、手首はこう回す、などと説明しますよね。でも、彼にそんな言葉は必要ないんです。実際にボールを打てば、コートの隅にボールが飛んでいき、“できましたよ、これでいいんでしょ”って感じですから」
それでも、監督の言葉は少しずつだが新濱に届いていった。
「たとえば、骨盤を前傾させろと言われても、実際に滑ると自分には合わないんです。それで、できませんって言っても、先生は“やれ”って。もう毎日、バチバチ火花が散りました。でも、それができなければ速くなれないことが、続けていくうちに理解できるようになった。
要はカラダを、自分が思った通り、自由自在に使えるようになればいいんです。自分はずっとスケーティング動作を分解して組み立てるというよりも、感覚で仕上げてきた。今でも練習しながら脚の角度や、重心の位置を瞬間的に変えたりしながら、ベストな感覚を探しています」
競技の練習や体力トレーニングはどのようなものだろうか。
「レース前の1週間はほぼ固定のメニューで、距離はそんなに滑りません。ただ、設定されたラップで滑ることは厳しく守ります。遅すぎると楽をしたことになるし、速いと負担が大きくて翌日に響いたりする。だから、タイムを見つつ、ケガしないギリギリのところで、繊細な練習をしている感じですね。
普段のウェイトトレーニングは、自分はマックスの80%ぐらいで行っています。ロードバイクで走るのも好きで、乗るときは平坦な道を距離にして100kmぐらいは走りますね」
現在、新濱の狙いは2年後に迫る北京オリンピックだ。そのための準備を、淡々と進めている。
「ずっと課題にしているのはコーナーワーク。今以上によくなれば、もっと好タイムが出せるし、高いレベルで安定した滑りができると思います。その他にもやらなくてはならないことはたくさんありますが、ひとつでも多く克服すれば、世界記録も十分に狙えると考えています。
簡単に出せるとは、まったく思っていませんけど、記録は後からついてくるもの。オリンピックまで2年間、自分としては、目の前にあることをしっかりこなしていくだけです。そうした積み重ねがきっと結果につながると信じているんです。北京オリンピックで必ず金メダルを獲得すること。それだけが、いま僕のたったひとつの目標なんです」