男子ライフル・松本崇志は「揺るがぬココロで的を撃ち抜く」
1点に泣かされて3大会連続で五輪の夢は断たれた。苦汁を飲まされ続けた12年以上の経験の蓄積が、今年、東京オリンピックの舞台で花開こうとしている。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.785〈2020年4月9日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.785・2020年4月9日発売
「あと一歩」というところで。
2019年の12月にドーハで行われたアジア選手権。男子ライフル50m3姿勢で11位となり、東京オリンピックの代表に決定したのが、松本崇志である。彼がオリンピックを最初に目指したのが北京。以来、ロンドン、リオデジャネイロと、本当にあと一歩というところで出場を逃してきた。
だが、苦節12年以上、ようやく摑んだ夢舞台へのキップなのに、表情がいま一つさえないのだ。
「代表選考の試合ではあったんですけど、目標はそこではなくてアジア選手権で優勝してメダルを獲ることでした。だから、悔しい思いが先にあって、代表にはなったのですが、全然満足はしていません。うれしさ半分、悔しさ半分という感じです」
松本が行っているライフル50m3姿勢について知っておこう。この競技はスモールボアライフルを用い、膝射、伏射、立射の3姿勢で40発ずつ、計120発を撃ち、ポイントで競われる。
大まかに言えば、的の一番内側にある直径1cmの枠を直径5.6mmの弾がとらえれば10点で、外す度合いによって、9点、8点と下がる。的までの距離は競技名が示す通り50m。繰り返すが、50m先の的のたった1cmを撃ち抜くのだ。この競技がどれほど繊細なものかはわかってもらえるだろう。松本は言う。
「すごく精密なことをやっているんですが、わかりにくいと思うんです。私がよくこの競技を説明するときには、ゴミ箱にゴミを投げ入れることを例にしますね。あれが、10点を撃つ感覚です。
1回入った、2回目も入った。これぐらいだと自分でもスゴイって思うぐらいです。でも、5回、6回となるとだんだんドキドキしてきて、次は入るかなっていう状態になる。そうなると、まず入らない。これが9点です。だから、9点が出たらゴミ箱外したなって思ってもらえばいいわけです(笑)。
動作と感情が直結するので、外してもできるだけ前向きに考えることが重要。心技体で言えば、この競技はほとんどココロで決まってしまうんです」
メンタルというのは競技の中だけでは身につくものではない、と松本は考えている。そのため普段の生活でも、負の感情を抱くのをやめたり、フラットでできるだけ気分の上げ下げがないように、自分をコントロールしていくことが重要だと言う。
「カチン!とくることもありますが(笑)、それを自分の中で消化してグッと抑え込んで、気持ちを相手に悟られないようにする。競技中だったら、相手に感情を読まれてしまうことは、ハンデになりますからね」
120発を2時間45分で撃ち切らないといけない。1分ちょっとで1発という計算になる。そして驚異的なのが、姿勢が一番安定する伏射ではほとんど40発、膝射では35発以上、立射では30発以上は10点を取らないと、上位は望めない。つまり、10点が当たり前ということなのだ。
「リズムに乗っているときは、多分30秒に1発ぐらいで撃っていくんです。それで、フッと何かがよぎったりすると、5分ぐらい休むときもある。選手によっては会場を出てしまう人もいます。試合が終わると、肉体的にも精神的にもボロボロです」
とんでもなく過酷な競技である。
「加算する」イメージを持て。
高校1年生からライフル射撃を始める。そして、卒業をするころには日本の上位に食い込む活躍を見せる。日本大学に入るとさらに腕を磨き、自衛隊の体育学校へ進んだころにはオリンピックに出場することが目標に。だが、08年の北京オリンピックを懸けた世界選手権では、5位で出場内定というところで同率の19位という結果だった。
「調子が良くて、行けると思っていたのですが、届かなかったんです。ただ、このときは夢までもう少しだったなぁという感じ。もちろん悔しさはあったのですが、まぁ次のロンドンがあるからいいやと思っていました」
4年後を目指して練習が始まった。ただ、当時を振り返ると「同じことを繰り返してばかりいた」と、松本は言う。固定化された練習をこなしていくことが、理に適っていると思っていたのだ。
「でも、それは間違いでした。練習での刺激はまったくないし、メリハリもつかなかった。だから、気持ちをうまく作ることができなかったし、ロンドンへ行く!という強い意志も生まれてきませんでした」
果たして代表の座は射止められなかった。これで終わったな、そんな気持ちだった。だが、自衛隊の木場良平監督やコーチ陣の励ましを受け、次に向かって進んでいく気持ちを作ることができた。ちなみに、木場監督はバルセロナ・オリンピックの射撃50mライフル3姿勢銅メダリストである。さらに当時のナショナルチームのコーチ、オーストリアのトーマス・ファーニックに助けられた。
「彼はメンタルの指導をよくしてくれました。どんな競技でも、勝手に自分で作ってしまう壁があるじゃないですか。それを、どうやって飛び越えるかという話をよくしてくれた。
自分の技術を引き出すことだけに集中しろ。そして、9点が出てもどんどん撃て。120発あるうちの1発なんか、終わってみればたいしたことはない。そこにこだわるから、引き算の心理が生まれる。マイナスではなくて、10点を加算していくイメージを持てば、最終的には高い得点になる。そういう考え方を教えてくれました。それまでは、失敗するとあと1回しか9点は出せないって、やっぱり引き算をしてたんですね」
トーマスと出会ってから、なんと1年間で6回自己記録を更新した。それまでは1年で1回がやっとだったのに、だ。そして、技術も格段に上がっていった。「彼の指導法は私に合っていたと思います」と松本は振り返る。手応えを摑んでいたリオ前年のアジア選手権。決勝進出ならオリンピック出場が決まる試合では同点で決勝に進めず、リオへの道は潰えた。ただ、それ以前から東京でオリンピックの開催が決まっていた。
「東京が決まったときから目指すつもりだったので、リオに出場できないことは、ロンドンのときのようなショックはなかった。それでも、1年間は競技から離れました。木場監督に自衛隊の幹部候補生学校へ行けと言われたからです。“いつも最後に1点足りない。それはどうしてかを学校で探してこい”と。幹部になるためには必ず行かないといけない学校なので、そこで学んで一回リセットするという意味もあった。
ただ、キツイことばかりです。時間に縛られ、勉強も難しくて、体力的にも厳しい。最後は100km行進。20~30kgの荷物を背負って、2夜3日歩くんです。達成は無理かもと思いましたが、ココロが負けなかったらできる。こんなにキツイことに比べれば、今までの練習なんて本当にたいしたことはないと思ったし、競技に向かう気持ちもより強くなった。それが今回に繫がったんでしょうね」
自体重のトレーニングで、カラダの動揺を減らす。
ココロの問題はずっと松本に纏わりついていたが、一方でこの競技はカラダも酷使する。ずっと同じ姿勢を保たなくてはならないし、装具の重さは4kgほどあり、ライフルも6kgという重さ。試合後には約2kgも、体重が減ってしまうこともある。
「試合の最後は、自分の腕かわからないぐらい痺れてしまうし、全身の力が抜けてしまう。だからカラダを保持するための体幹が重要。フロントプランクとか、バランスボールの上でスクワットをしたりとか、自体重のトレーニングをやっています。それが競技でカラダの動揺を少なくすることに直結しているんですね」
そう、人は常に動揺しながらバランスをとっている。しかし、ライフル選手に限っては、普段からカラダが揺れ動くことが少ないようなのだ。
「月に一度ぐらい防衛医大の先生がバランス分析をするんです。それによると、私たちは足裏のほぼ一点に重心が来ている。もちろん動揺しているから、その一点からちょっと外れて、また元に戻るというような感じです。重心の動きがほぼない。それで中心に戻った瞬間に引き金を引く。だから、重心は常に意識しています。電車ではつり革を持たずに立って、揺れに耐えるようなこともします。まぁ、遊びなんですけどね」
競技では自然の影響も受ける。とくに大きいのが、左右から吹く風。弾は時計回りに螺旋を描きながら飛ぶので、左から風が来ると右下方へ、右からの風は逆に左上方へと飛ぶ。海外選手は競技場を転戦して、いろんな状況を経験として蓄積する。ただ日本人選手は、リオ以前は「海外で撃つのは特別だと思っていた」ほど経験不足だった。
でも、今の彼は違う。いやというほど苦汁を飲まされ、そのひとつひとつが力へと変換されている。そして、いよいよオリンピックが開催される。しかも、競技場は陸上自衛隊朝霞訓練場。いつも撃っているホームグラウンドだ。
「有利だと思いますよ。10年以上同じ場所で練習してきたから、風の感じはわかっている。しかも、東京の暑さを知っているのも日本人しかいないですよね。海外の選手は、真夏といっても涼しいところで撃っていますから、かなり厳しいでしょうね。
自分の目標はメダル、できれば金を狙いたいです。これまでずっといろんな方に支えてきてもらって、ようやくオリンピックに出る姿を見てもらえる。感謝の気持ちを持って、笑顔を届けたいと思っています。地元じゃ“出場するのが遅すぎだ!”って、言われているんですけどね」