走り幅跳び・橋岡優輝「8m50を跳べば、オリンピックのメダルは穫れる」
日本人にはまったく歯が立たなかった走り幅跳び。橋岡優輝は、この競技を技術的に深く掘り下げることでついに世界と対等に戦える選手に成長したのだ。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.773より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
(初出『Tarzan』No.773・2019年9月26日発売)
目次
まさかの1日で2度の日本新記録。
2019年8月に行われた、アスリート・ナイトゲームズ・イン福井。男子走り幅跳びでは、とんでもない出来事が起こった。
まず、この大会まで日本歴代2位の記録を持っていた橋岡優輝が、1回目のジャンプで8m32を跳ぶ。これは1992年に森長正樹氏(彼は現在、日本大学で橋岡のコーチを務めている)の打ち立てた日本記録8m25を超える新記録であった。
これで、優勝は確実と誰もが思っていたとき、3回目の跳躍で城山正太郎がなんと8m40という、ビッグジャンプを見せたのである。
これは、今季世界最高に1cm及ばないだけの距離で、日本の幅跳び選手として、この2人は近年では初めて世界と戦えるレベルに達したといえよう(走り幅跳びのオリンピックでの日本勢のメダルは36年ベルリン・オリンピックの田島直人まで遡る)。
助走というのは、速ければいいというものじゃない。
これからの両雄の戦いにも注目したいわけだが、実績という面では橋岡が一歩抜きん出ているのは事実である。4月に行われたアジア選手権で、8m22で優勝しているし、コンスタントに8m台を出すことができるからだ。
対する城山の日本記録は、自己記録の8m01を39cmも更新したものだった。ただ、この記録を出して、城山がこれからさらに力をつけていくことは確実であろう。
話を橋岡に戻す。今回の取材のときに、やはり話に上ったのがアジア選手権のことであった。その記録は素晴らしかったし、世界選手権内定へと繫がるきっかけにもなったろう。彼にとっては、何よりもうれしい跳躍だったに違いない。そう思って、あのときの感じを聞いてみると、浮かない顔をしてこう語ったのだ。
「渾身のジャンプはできなかったですね。まぁ、集中はしていて、いい状態ではあったけれど、自分の納得がいくジャンプではなかった。走り幅跳びの助走というのは、速ければいいというものじゃない。100mを走る技術とは別物なんです。踏み切るという結果に対して、助走はあくまで過程です。あの記録のときは、自分のイメージしている走りには、まったくなっていなかったんです」
それで、あそこまで跳べるということは、完璧なジャンプをしたらどれほど距離を伸ばせるのか…。とは、誰しも考えることだろう。そして、8月の8m32という結果を見て、納得するのだ。
しかし、橋岡本人はこの記録にも「助走が詰まっていたし、踏み切った感じではなく、そのまま流れてしまった。だから32cmにはびっくりした」と語っているのだ。つまり本人は、こんなものではないと考えているのである。
ただ走る、ただ跳ぶ。だから難しい。
走り幅跳びはもちろん筋力は大切だが、技術が大きくものをいう競技でもある。とくに、外国人に比べ力に劣る傾向にある日本人は、技術の向上に余念がない。それは、橋岡にしても同じで、しっかりと自分の理想の跳躍を思い描いて練習している。
「僕は助走が20歩で、最初の8歩、中間の6歩、最後の6歩で分けています。そして、最初は地面の反発をもらうことがテーマ。足の接地時間は比較的長く、尻やハムストリングスなどの筋肉を使って、大きな力を地面に加え、その反発をもらうような区間ですね。自分の中では(体重やスピードを)乗せる区間とも捉えています。
で、中間の部分ではテンポは変えずに踏み切るための助走へと切り替える。接地時間はちょっと短くなるのですが、この6歩は非常に感覚的な部分で、口で説明するのは難しいんです、スミマセン。
そして、最後は踏み切りへのアプローチ。接地を長くするのをやめるというか、走り抜けていくイメージだとスピードが上がっていくのです」
そして、踏み切りへと入っていく。橋岡は「踏み切り板に足を置くだけです」と言うのだが、よくよく聞いてみると、これがまた難しいのだ。
「踏み切ろうとすると、タイミングが遅くなってしまったり、余計な力がかかる。すると、カラダがつぶれてしまうんです。
踏み切りのときはカラダが一本の棒のようになって、ポンッと地面から弾かれていく、というのが理想。だから、みなさんが膝のバネで跳ぼうとするのとは、だいぶイメージが違いますね。走ってきたスピードをどれだけ維持して、斜め前方に持っていけるかがポイントなんです。
そして、踏み切り板に足を接地するときは、フラットであることが重要。少し前に踵をケガしてしまったのですが、そのときは向かい風で、最後の一歩が思ったよりオーバーストライドになってしまった。そのぶん、踵着地となって地面からの衝撃を受けてしまいました」
陸上競技は単純だから面白い、と言う人は多い。確かに、誰でも目で見ればすぐに勝敗はわかる。だが、やっている選手たちにとっては、それほど単純ではないのである。橋岡も「ただ走る、ただ跳ぶ。だから難しいんですよ」と言うのだ。
サラブレッドとして生まれて。
中学校から陸上を始めた。最初は100mだったが、中学2年生から四種競技に転向した。中学では、110mハードル、砲丸投げ、走り高跳び、400mの合計をポイントで競う、この競技がある。橋岡は中学校3年生のときに、全国中学校陸上競技選手権で3位に入っている。
ハードルや走り高跳びなど、技術的に難しい種目を、始めて2年とたたないうちに自分のものにして、全国で2位になってしまうというのは驚異的なこと。だが、そのころ走り幅跳びはまったくやっていなかったのだ。
彼はサラブレッドだと、よく言われる。父の利行さんは棒高跳びの元日本記録保持者、母の直美さんは100mハードルの日本選手権覇者。八王子高校で走り幅跳びを橋岡に初めて教えた、顧問の渡邊大輔さんは叔父。この競技で世界選手権、オリンピックに出場している。
さらに、いとこはサッカーユース日本代表・浦和レッズの橋岡大樹。まったく、すごい顔ぶれとしかいいようがない。高校で幅跳びを始め、すぐに実力をつけていけたのも、この背景があったからかもしれない。
「でも父、母がすごいから、何だ?と思ったときもありましたね。ただ、陸上選手としてはすごいのはわかっていたし、尊敬もしていますけれど。だから、アジア選手権で金メダルを獲ったときは1つ超えたと思いましたね。父、母ともにこの大会では、銀メダルだったので(笑)」
今はまだその時期ではない。
現在、橋岡は日本大学の陸上競技部に所属し、東京の世田谷にある陸上競技場で日々、研鑽を積んでいる。どのような練習を行っているのか。
「高校時代はカラダ作りの基本中の基本ばかりをやっていました。走り幅跳びでの、いい動きというのを覚えていったんです。大学に入ってからはその応用というか、より深いところを探ることが中心になっています。
助走の走り方も、高校では練習でも8歩、6歩、6歩のリズムをとるということはやっていたのですが、それぞれの意味合いにまでは踏み込んでいませんでしたから」
また、高校までは自体重のトレーニングだけを繰り返していたのだが、大学に入ってからはウェイトトレーニングも取り入れるようになった。
「ただ、ガッツリとやっているという感じではないです。試合前に、本番で力の発揮がうまくできるように、少し重いウェイトで素早く動くというような練習をしています。クリーンだったりスクワットで、尻まわりや、ハムストリングスがしっかり使えるように刺激を入れるのが目的です。
ただ、カラダをウェイトトレーニングで作り上げるというのは、これから先に突き詰めていかないといけないし、いつかは必要になるとも考えています。今はまだその時期ではないと思っているんですけどね」
カラダの使い方を、より深く理解したい。
前回のリオデジャネイロ・オリンピックの走り幅跳びで金メダルだったのは、アメリカのジェフ・ヘンダーソン。記録は8m28であった。これを聞くと、今すぐにでも橋岡が優勝を狙えると考える人も多いだろう。ところが、実はそれほど簡単ではない。
リオのときとは状況は明らかに変わってきているのだ。何かのきっかけさえあれば、8m70台をいつでも跳べるという選手が、数人はいるのである。
つまり、それに対抗しようとすれば、実力をさらにつけなくてはならない。東京オリンピックでは、間違いなく上位の記録は伸びるはずだからだ。しかし、残された時間は1年を切っている。この先、どのように進んでいこうと、橋岡は考えているのであろうか。
「今から、何かを急いでやるというのはあまりないんです。これからも、ずっとやってきたように、カラダの使い方をより深く理解して、動きの再現性を高めることが大切だと思っています。
今回は大きな筋肉が使えなかった、という感想じゃなくて、安定して上手く使えるようになったけどその先が…、というところまで行きたい。
そうすれば、助走はよくなるし、踏み切りだって変わってくるはず。跳躍全体にいい効果をもたらすと考えているんです。そうなれば、来年には8m50を跳べるんじゃないかと思っています。そして、この距離ならばメダルの可能性もある。
まずは東京オリンピックでメダルを獲って、次のパリでは金メダルというのが目標ですね。そうなれるよう、走り幅跳びとしっかり向き合っていきたいと思っているんです」