体操選手・谷川翔「兄弟で声を掛け合いやってきた。それが大きな力になる」
子供の頃から厳しい練習を積んできた谷川翔は、今年、見事に世界選手権の切符を手に入れた。さらなる目標は、兄と一緒に出場を目指す東京五輪だ。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.769より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
(初出『Tarzan』No.769・2019年7月25日発売)
世界選手権出場を逃した苦い経験があった。
体操の個人総合で重要な大会が2つある。それが、全日本選手権とNHK杯だ。今年、その両方で優勝し、10月にドイツのシュツットガルトで行われる世界選手権の代表を手中に収めたのが、谷川翔である。まずは、今シーズンのここまでの活躍について話してもらう。
「今年は自分のなかでいい結果が出せているなと思っています。でも、ここで満足していたら、とても世界とは戦えない。
代表になるのは大変なことなんですけど、当たり前と感じるぐらいじゃないと、世界選手権とかオリンピックに行ったときに、全然相手にしてもらえないと思う。だから、余韻に浸ってモチベーションが下がらないように、まだまだこれからだという気持ちで、さらに引き締めていこう、と思っています」
実は谷川は昨年の全日本選手権でも、優勝を飾っている。日本のエース、内村航平の10連覇を阻み、史上最年少の19歳2か月で成し遂げたこの快挙は、広くニュースで取り上げられたから、覚えている人も多いだろう。
しかし、NHK杯では最終種目の鉄棒でまさかの落下。世界選手権出場を逃してしまうという、苦い経験があった。そして、今年のNHK杯でも、またも最終種目は鉄棒。どんな心境で臨んだのであろうか。
「(試合の流れが)去年と同じような感じだったので、けっこう緊張しました。ああいうときって、いろいろ考えるんです。また失敗したらイヤだなぁとか(笑)、成功したときのことをイメージするとか。最終演技者だったので、待ち時間も長かったですから。でも自分の番になって、最初に挨拶したら、もう何も考えないというか、演技だけに集中できました。
去年は鉄棒で失敗した技がずっと不安要素だったんです。そういう気持ちがあると、本番でも失敗しやすいと思います。それに比べて、今年は不安は何もなく、ただすべての演技をやり切ろうと考えていたことが優勝に繫がったんでしょうね」
谷川には2歳年上の兄、航がいる。彼は一昨年、そして昨年と世界選手権に出場し、今年も代表権をつかんだ。以前、インタビューをしたとき、「弟と一緒に出場したい」という言葉を口にしていた。10月の世界選手権では兄弟揃って出場という、一つの夢が叶うことになる。
「自分が世界選手権の代表になるというのも相当うれしいことなんですが、それがお兄ちゃんと、というのはうれしさも2倍という感じですね。試合に一緒に行けるというのも安心感がありますし、他のメンバーとも仲がよいので、心強い。チームワークだったら、日本チームが一番だと思うんですよね」
“爪先、爪先!”と、クセのように言われた。
谷川の演技は、その美しさに定評がある。写真を見てもらえばわかるが、演技中に指先、爪先はピンと伸び、躍動感に溢れつつも、しなやかさが感じられる。日本が目指す“美しい体操”を体現しているといえよう。そして、なぜこのような体操ができるようになったかは、彼の原風景を見てみるのが一番手っ取り早い。
「小学校1年から地元の健伸スポーツクラブに通いました。お兄ちゃんが行っていて、自分も行きたいと思ったんです。ここで美しい体操を叩き込まれました。本当の基礎なんですが、たとえば倒立だったら、尻が出っ張ってるとか、姿勢が悪いとか。いちいち言われたというか、言っていただきました(笑)。
演技のときもいつも“爪先、爪先!”と注意されます。先生方も、もうクセになっちゃってて、伸びているはずなのに“爪先、爪先!”ってときもありました。先生もそれぐらい美しさというのを大事にしていたんですね」
ただ、基礎の練習というのは面白くないのは事実。正しい姿勢を作るために、何度も同じことを繰り返すのだ。谷川は「ずっとイヤだなぁと思っていました」と笑って言う。
「基礎だけではなく、並行して技も習得していきます。トランポリンを使ったりして。跳んだりはねたりで一見楽しそうに見えますが、とんでもないです。2時間ずっとやるんですから。もうキツくって、ダメだー、って思ってました。それに、最後の1時間は筋トレです。
先生が“次、腹筋100回!”なんて言って、ひたすらそれをこなしていく。これはクラブのみんながキライでしたね。でも今は、これがあったからこそ今の自分があると思っているんです」
小学生にとっては、とてつもなく苦しい練習の日々だったろう。泣きながらやったこともあったという。ただ、大会に出て結果が残せるようになると、体操のよろこびもわかってくる。そして、もうひとつ。兄・航の存在がとても大きかった。
「中学校のときは、僕もかなり追いついた感じで、試合のときの出来次第では抜けるかも、というときもあったんです。結局、負けていましたけど。でも、高校に入ったときは、まったくかなわないほど差がついていた。
市立船橋(船橋市立船橋高等学校)に僕が入学したとき、お兄ちゃんは3年生で、インターハイで優勝した。スゴイなぁって思ってましたし、早く追いつかなきゃとも考えていました。大きな目標でしたね」
ようやく、遠かった兄の背中に追いついた。
もちろん、谷川が入学した高校は、体操の強豪校。だから、兄だけではなく強い選手が大勢いた。そして、そこで練習することが谷川にとって大きかったし、刺激にもなった。
「体操の技って簡単にできるものじゃないんです。何百回も練習してやっと完成する。そんなときに、まわりの人と話すことが重要になってくるんです。
感覚的なことなので説明するのが難しいのですが、“もう少しカラダの角度をこうしたほうがいい”とか“腕をもっと強く動かしたほうがいい”とか、いろいろ話すんです。
ただ、それが全員同じようにできるかというと違う。だから、いろんな人から、いろんなやり方を聞いて、自分に合ったものを見つけることが大切。高校では多くの人に話が聞けたことも重要だったですね」
そして、兄という目標にやっと追いつけたと思う瞬間が訪れる。それが、高校3年のときの全日本ジュニア体操選手権での個人優勝だ。彼はこの勲章を持って、兄が通う順天堂大学に進学する。と、その年、3年だった兄は世界選手権の代表の座を手にするのだ。また兄が遠くなった。
「それで去年、全日本で僕は優勝したのですが、結果的にはお兄ちゃんが世界選手権の代表に選ばれた。ただ、このあたりから対等な感じで戦えるようになったと思ったし、ライバルと呼べるようになったんです」
ようやく、追いついた。それだからこそ、二人で揃って代表になれたことが、心の底からうれしかったし、ここから始まる新たな道にも、大きな希望を抱いているのであろう。
基礎をもう一度やって、技の美しさに繫がった。
現在、谷川は順天堂大学体操競技部に所属して、毎日汗を流している。練習するのはオガワ・ジムナスティック・アリーナと呼ばれる、一昨年竣工した最新鋭の体操競技場。部員たちはよりよい環境のなか、伸び伸びと自らの演技を磨いている。
ちなみに順天堂大学は全日本体操団体選手権で3連覇中である。さて、谷川はどのような練習を行っているのか。
「毎日、4時間ぐらいですね。今年に入ってから、2回に分けて練習するようになりました。授業の合間にここ(アリーナ)に来て、午前中に1時間ぐらいカラダを動かして、その後夕方から再度練習という感じですね。
ずっと前から、1日2回の練習がいいのはわかっていたんですが、休み時間にカラダを動かすって考えると、なかなか実践できずにいたんです。そんなとき、先生方が練習時間を増やそうと提言された。
全日本団体4連覇も懸かっていますし、4年生が抜けてその穴を埋めなきゃいけないということもあって。それで、やってみることになったのです」
これが谷川にプラスに働いた。美しい体操に磨きがかかり、さらに効率よく練習できるようになったのだ。
「夕方からの練習は主に技をやるんですが、午前は倒立とか、あん馬の旋回や着地など、カラダの使い方を確かめる練習です。基礎をもう一度やっているようで、これが技の美しさにも繫がってきた。さらに、午前中にやることで、夕方もすぐにカラダが反応するようになって、スムーズに練習できるようになりました」
さて、谷川が最終的に目指しているのは、もちろん兄弟揃っての東京オリンピック出場である。だが、これがなかなか容易ではないのだ。今、日本の男子体操は選手層が厚く、国内の代表レースも苛烈なのだ。今年、谷川兄弟が出場する世界選手権代表には、リオデジャネイロ・オリンピックで代表だった選手が一人も入っていないのが、その証拠である。
「まず、世界選手権で結果を出すこと。ここで、いい感覚をつかんでおきたいです。また、来年代表になれるか否かでオリンピックに出場できるかどうかは決まる。だから、まずそれを目標にして、しっかりとやっていきたいです。
それと、僕がどうがんばっても、お兄ちゃんが代表になれるわけじゃないから、お互いに切磋琢磨して二人で出場を果たしたいですね。一人でやるというのじゃなくて、兄弟で声を掛け合ってやっていけば、それが大きな力になると思うんです。どっちか一人じゃ寂しいじゃないですか(笑)」