この連載の筆者・内坂庸夫さんはこんな人

前回「その1」はこんな話でした。
1)石川弘樹さんが、米国の100マイルレースに夢中になる。大活躍するものの、その「とんでもない」快挙は広く伝わることはなかった。アメリカ国内でのことだし、情報を提供する方法も、伝えるメディアも未熟だった。
2)その石川弘樹さんは「トレイルランナー」という肩書きでエントリーした「日本山岳耐久レース」で、2002年、2003年と連勝する。まったく同じ年に鏑木毅さんが「富士登山競走」を2連覇。少しずつアウトドア業界で「山を走ること」が、「トレイルラニング」という名称が、知られてゆく。
3) 当時〈ザ・ノース・フェイス〉(以後〈TNF〉)のプロモーション担当の三浦務さんが、「トレイルラニング」は新たなアウトドアの商材になるのではないか、と注目。新しい大会の開催を企画する。プロモーション効果を狙い、開催時期は4~5月、日本中の誰もが知っていて、首都圏から日帰り圏内で、と「ハコネ50K」がプランされる。優勝男女の副賞は2007年「UTMB」への出場&招待だ。

「ハコネ50K」のスタートは箱根湯本駅横の狭い急坂。2007年5月27日、1028人が走り出した。
箱根ひと筆書き。
さあ「その2」。石川弘樹さんが「日本山岳耐久レース」を2連勝したころ、鏑木毅さんが「富士登山競走」を2連覇したころ。つまり2000年代当初、関東で山を走るレースは、7月頭の「北丹沢12時間山岳耐久レース(1999年から)」、7月末の「富士登山競走(1948年から)」、10月頭の「日本山岳耐久レース(1993年から)」、そして11月の「青梅高水国際トレイルラン(1999年から)当時は「青梅丘陵山岳マラソン」、くらいしか広く知られていない。レースシーズンは7月から11月にかけてわずか4ヶ月、夏から秋。
だったら、春先に新しく魅力あるレースを開催すれば、ランナーたちはその前から準備するだろう、用具用品のマーケットは大会前から動き出すじゃないか。三浦務さんが4~5月と春の大会開催を望んだのは、「その1」で紹介した〈TNF〉の新商品=フライトシリーズ=トレイルラニング衣料を、春前から市場展開したいからだ。販売時期を前倒しし、マーケットを拡大したいからだ。
「ハコネ50K」は箱根湯本をスタートして「明星ヶ岳」「金時山」と外輪山を反時計まわりに次々に進み「山伏峠」「海ノ平」を越えて芦ノ湖湖畔へ。次にUターンするように外輪山の足元を湖畔遊歩道で桃源台まで戻り、湖尻から芦ノ湖東岸に。そこから箱根最高峰の「神山1438m」に上がって「早雲山」から強羅・彫刻の森にフィニッシュ、まさに箱根のいいとこどり「ひと筆書き」の55km。よくぞ、こんなコースを考えたもの。滝川次郎さん、さすがです。
当時、国内最大規模となった「ハコネ50K」は大成功と言っていい。2007年5月27日(日)晴れ。日本全国から1200名が参加申し込みを済ませ、実際に出走したのは1028名。18年も前にこれだけ多くのトレイルランナーが集まったのだから、いかに「ハコネ50K」が魅力的だったか、わかろうというもの。いまやレジェントと呼ばれる名選手たちが顔を揃えていた。
三浦さんのもくろみ通り、日本中の誰もが知っている「箱根」という国内有数の行楽地、東京・新宿から特急なら75分とアクセスがよく、名旅館、名ホテルが建ち並ぶ、眩しいばかりのブランドの地。あらゆるところに温泉が湧き、選手たちの宿泊にはまったく困らない。そして50kmという無理のない距離。なによりも、多くの日本人は駅伝と温泉の箱根しか知らない。「え、箱根でトレイルラニング⁉︎ 」「え、箱根の山を走れるの⁉︎ 」という意外性も魅力となった。

ヨーロッパ〈TNF〉のトーファーさんから提供された「UTMB」写真を元に作り上げたゲート、手に入れた四角バルーン。
フィニッシュ会場でライブ演奏。
ここで思い出していただきたい、「その1」にこう書いた。・・・当時米国では、健康至上主義へのカウンターカルチャーだろう、タイムやペースにこだわるストイックな記録狙いの陸上競技文化への反発だろう。ルールや常識にとらわれないランナーがあらわれた、街ではなく野山、舗装路でなく未舗装路を好き勝手に走るトレイルラニングが目立つようになってきた。
各地に自然発生的にトレラン・コミュニティが誕生し、毎週末、大小いくつものイベントが開催されていた。「レース」という名であっても順位やタイムを計測しないものもあり、当日スタート直前に申し込んでそのまま走り出せる5km程度のものから、夜を越えるものまであった…。
トレイルラニングは「山を走る」ことを「楽しむ」もの。三浦さんは、それまで日本で開催されていた耐久レース、山岳マラソンのいかにもの「運動競技大会っぷり」から抜け出したかった。
「ハコネ50K」にはお祭り、エンターテイメント的な演出が施される。「UTMB」のスタート/フィニッシュゲートを(「その1」で登場した)トーファー・ゲイロードさんの作成した内部資料から複写し、施工業者に同じものを彫刻の森に作ってもらった。そして「UTMB」名物とも言える赤い大きな〈TNF〉の四角バルーンを(ヨーロッパ〈TNF〉のイベント用資材でもある)を譲ってもらった。いやあ、かっこいい。
彫刻の森のフィニッシュ会場では、仲間を待ちわびる友や家族のために「サザンオールスターズ」に欠かせないギタリスト・シンガーソングライター「斎藤誠さん」のライブがえんえん行われていた。トレランはロックだぜ!

箱根町長から鏑木毅さんと間瀬ちがやさんに副賞として「UTMB」招待チケットが贈られた。
優勝したふたり。
さて、三浦さんの構想は奥が深い。「ハコネ50K」の開催を実現させるだけではなく、大会の男女優勝者を「UTMB」に出場させてそのストーリーをメディアに紹介してもらいたい。トレイルラニングをアウトドア業界だけでなく、日本中に広く知られてほしいのだ。もちろん〈TNF〉のサポート選手である鏑木毅さんに優勝してほしいし、彼の「UTMB」挑戦ストーリーを描きたい。
「ハコネ50K」レース当日、その鏑木さんがハラハラさせてくれる。桃源台手前の「第2チェックポイント」でトップの森下勇樹さんに7分の遅れ、大丈夫か? そしてこれがすごいのだけど、残りの区間(最高峰神山への上りそして早雲山、強羅への下り)で追いつき、追い越し、逆転してしまう。
鏑木さん優勝6時間29分00、2位森下さん6時間31分16。3位は相馬剛さん、4位は望月将悟さんだった。女子は間瀬ちがやさんが1位(7時間40分39)、2位は佐藤浩巳さん(7時間41分46)、女子それぞれ総合20位、21位なのだからなんとも素晴らしい。
かくして鏑木毅さんと間瀬ちがやさんが2007年「UTMB」に行くことになった。実を言うと三浦さんは「ハコネ50K」の結果がどうあれ、鏑木さんと横山峰弘さんには「UTMB」を走ってもらいたい。なので「UTMB」の出場枠を男女優勝の2名のほかにもう2名ぶんをおさえていたのだ。横山さん、佐藤浩巳さんも「UTMB」に出場することになった。男女2名づつ、うまい具合に全員が〈TNF〉のアスリートであった。
ところで、女子優勝の間瀬ちがやさんを知る人は少ないかもしれない。彼女はなんともすごい人で、1999年の第1回「北丹沢12時間山岳耐久レース」で2位、その後この「キタタン」を2000年から2007年まで7連覇。そして「日本山岳耐久レース」は5勝。1999年、2000年、2001年に3連勝して、2004年、2007年にも勝っている。これだけでも十分にすごいのだけど、さらにとんでもないことに、彼女は望月将悟さんや土井陵さんの活躍で知られる「トランスジャパンアルプスレース/TJAR」2006年大会で優勝している、2004年は2位だし、もう開いた口がふさがらない。
当時、横山峰弘さんは「チームイーストウインド」で活躍していたアドベンチャーレーサーで、トレイルラニングに活動の軸足を移しているころ。佐藤浩巳さんは元トライアスリート、横山さんと同じ「チームイーストウインド」のアドベンチャーレーサーだった。
「ハコネ50K」から3ヶ月後、2007年8月に三浦さんは鏑木毅さんとこの3人を引きつれて、生まれて初めての「UTMB」に臨んだ。

コースは千変万化、長い長い稜線の先に樹林帯があって、湖畔沿いのフラットの次に大眺望。箱根の魅力が50kmに集約されていた。
最初で最後の「ハコネ50K」。
大成功だった「ハコネ50K」は一度しか開催されなかった。地元の人たちへの説明不足、調整不足があったのかもしれない、「はじめてのこと」「前例のないこと」「知らないこと」「わからないこと」…多くの人は、特に高齢者の方たちは、恐がるし、嫌がるし、遠ざけようとする。歴史と伝統のある箱根の町でそれが起きた。
大会の開催3日前に地元の環境団体が、箱根町長、環境省の担当に開催中止を求めたのだ。開催の3日前である、主催者の滝川さんは山に入ってコース目印をつけている、会場の設営も始まる。三浦さんが代わりに出席し、つるし上げを食らった。「中止はできない」、いくら説明しても彼らは聞く耳を持たない。箱根町、環境省はその騒ぎに辟易してしまう。

「ハコネ50K」現場の三浦務さん。多くの人を巻き込んで「UTMB」を次なる舞台にする。
その年の12月、いつの間にか富士箱根伊豆国立公園の箱根地域内に「歩道利用ガイドライン」ができ上がっていた。ごく当たり前の文言の中の4番目、
『集団で歩道を利用する場合には、一列歩行をし、他の動植物には細心の注意を払いましょう』という一文。なんでもないように読めるけれど、実はこれが見事なまでにトレイルラニングレースを排除している。
よくよく読めば「登山道、ハイキングコースなどで、ふたり以上の場合は、走ることを、追い越し追い抜くことを、やめましょう」なのである。
あくまで、ガイドラインではあるけれど、それが掲げてある以上、公に箱根では大会を開催できない、トレイルラニングに理解ある地元の団体も開催に協力できない。
https://hakonevc.sunnyday.jp/haiking/gideline.pdf
よく調べもしないもメディアがトレイルランナーを目の敵にし、「山の暴走族」と決めつけていたころでもあった。

2007年夏、はじめての「UTMB」。そこにはモンブランと箱根で見た赤い四角のバルーンがあった。

これが「UTMB」。タイトルに「TOUR」がついていた当時から世界一の大会といわれる。
一歩ごとにじゃぶじゃぶ音がする。
2007年8月「UTMB」。三浦さんは、雑誌メディア『ターザン』と『ランナーズ』を招待している、4選手の活躍と「UTMB」という世界最高のトレイルラニング大会を広く深く日本に伝えてほしいのだ。
この「UTMB」、あまりにスケールが大きい。3カ国をまたぐ163km(パスポートは必携装備)、4選手にとっては初めてのヨーロッパアルプス、硬い石と岩だらけのトレイルだ。それでも100マイルという距離については、間瀬さんは前年に「TJAR」富山~静岡間およそ415kmを走破しているし、しかも優勝だ。横山さん、佐藤さんはアドベンチャーレーサーだから超長距離を進むことには慣れている。超長距離の実戦経験がないのは鏑木さんだけか。
結果は? 惨憺たるものだった。まともに完走できたのは鏑木さんだけ。いや、まったくまともではなかった。筋肉は疲労を越えてなお動かすとこうなるのか? レース中盤から、下肢の多くの筋線維が引きちぎれ、内出血した血液で一歩足を踏み出すたびにじゃぶじゃぶ音がするという。一歩ごとに裸足で針を踏み抜くような激痛が脳天を貫くいう。「生まれてこのかた、こんなに辛い思いをしたことはない」と。鏑木さんはあまりの痛みに声をあげ、悶絶のままに、それでもなんとか12位でフィニッシュしている。シャモニに戻ったものの、もはや歩くことはできない、車椅子に乗っての帰国だった。まともに動けるようになるまで3ヶ月もかかっている。
横山さんは最高地点のグランコルフェレ(2,537m)を越え、次のエイド、ラフーリーの2km手前で全身痙攣を起こし、トレイル脇で50分ほど座り込んでしまう。憔悴しきった横山さんは後続の選手に抱きかかえられてラフーリーに運ばれ、そこで倒れ込み3~4時間ほど眠ってしまう。そして、これがなんともすごいのだが、「走れないなら歩く」、残り61kmを歩くのだ。221位でフィニッシュする。
間瀬さんはあまりの疲労困憊そして睡魔に勝てない、140kmのエイド、トリアンの手前のコース横で眠ってしまう。横山さんと同じように心配してくれた選手に付き添われて、トリアン(教会とゲートがある)にたどり着いて、そこで安心したのか、三浦さんに電話をする、「いまフィニッシュしました、迎えに来てください!」。「いやいや、教会とゲートはあるけど、そこはシャモニじゃなくてトリアンというエイド、まだ30km残っています。間瀬さん、すごく疲れているんだから、まずは仮眠してください、朝になったらまた走り出してください」と三浦さん。
翌日、仮眠をとった彼女は元気にシャモニに帰ってきた、880位(女子42位)だった。佐藤さんは80km地点のクールマイヨールで、すでに限界を越えていた。しかも生理痛に苦しみ、ボランティアから痛み止めの薬をもらってなんとかしのぐも、下痢にも悩まされる。なんとかグランコルフェレの麓のアルヌーバにたどり着き、そこでリタイアする。

「生まれてこのかた、こんな辛い思いはしたことがない」と鏑木さん、それでも12位でフィニシュするのだから恐ろしい。
とんでもないレースに出してしまった。
そして彼らを連れてきた三浦さんは、イタリア・スイス国境のグランコルフェレの手前のエイドで「じゃぶじゃぶ」の鏑木さんに、その後に意識朦朧の横山さんと会い、深く深く後悔する。間違っていたのか、日本のトップランナーたちがまったく歯が立たない、とんでもないところへ連れてきてしまった。とんでもないことをさせている。
「もういい、ここでやめろ、もう十分だ」。しかし、鏑木さんも横山さんもやめない、三浦さんの言うことをきかない。「UTMB」最大の難所、グランコルフェレへ上ってゆく。マーケティング拡大のためとはいえ、仕事とはいえ、彼らになにかがあったらどうしたらいいんだ? 三浦さんは後悔と不安と苦悩を抱えてシャモニで、悶々と彼らを待つことになる。少なくとも全員が生きてシャモニに戻ることはできたが、はじめての「UTMB」、彼らは惨敗、戦うことすらできなかった。
「ターザン」は『世界最大規模のウルトラトレラン、ツール・ド・モンブラン激走記』のタイトルで、彼らの精一杯の走りっぷりを報告している。「ターザン」はこの先、「UTMB」にどっぷりはまることになる。
2007年「UTMB」表彰式。いまも昔も「UTMB」では10位までの選手が表彰の舞台に上がることができる。満身創痍どころか、ストックなしでは立つこともできない鏑木さんが、表彰台を見つめている。隣でその横顔をのぞき込んだ三浦さんはびっくりする、鏑木さんの目がメラメラと燃えているのだ。
「こいつ、来年はあそこに上がる気だな」。「よおし、そうかそうか。だったら来年はあそこに上げてやろうじゃないか」。表彰式の真っ最中に、三浦さんは翌年の戦略を考えはじめるのだ。
逃げるじゃぶじゃぶ、追うじょんじょん。
笑い話もある。「その1」で紹介したヨーロッパ〈TNF〉の社長、トーファー・ゲイロードさんは「UTMB」2003年第1回大会で2位、2005年6位、「ウェスタンステイツ」は7回完走というとんでもない人で、もちろん2007年の「UTMB」にも出場している。
そして事前に三浦さんともやりとりをしているから、「ハコネ50K」で優勝した日本人選手がやってくることも知っている。
そのトーファーさんが124km地点のエイド、シャンペ・ラクで息も絶え絶え、リタイア間違いなし状態の鏑木さんに追いつくのだ。先にエイドを出て、山に入ったところで立ちションをしていると、ダメダメに思えた鏑木さんがその後ろを通り過ぎていく。「え! なんだあいつ、一歩も動けないと思ったのに」。
負けてたまるか! とあわてふためき、大事なものを仕舞うことを忘れ、じょんじょんさせながら後を追ったという。トーファ-さん自身が三浦さんに語っている。
そのトーファーさんは24位でフィニッシュするのだが、鏑木さんの「とてつもない強い走り」を評価してくれて、機会あるごとに「日本のカブラキはすごいぞ…」と、ヨーロッパ〈TNF〉だけでなくグローバルの〈TNF〉に語り伝えてくれるのだ。
トーファーさんの推しもあって、鏑木さんは〈TNF〉のトップアスリートとして知られるようになり、三浦さんの「UTMB」計画はさらに増長してゆく。
「その3」、「激走モンブラン! 」に続く。



