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「100マイルを伝えた人たち」その3|トレラン正史vol.6

今やすっかり市民権を得たトレイルラニング。でも冷静に考えてみると、山を走るという”競技”はどこから来たのか、そして、どこへ行くのだろうか。国内外でシーンを黎明期から取材してきたレジェンドエディター・内坂庸夫さんによる、山を駆ける者たちを取り巻く壮大なクロニクル。第6回は、vol.4、vol.5に引き続き「100マイルレース」を日本に伝えた人たちの話「その3」。

取材・文/内坂庸夫 撮影/柏倉陽介

この連載の筆者・内坂庸夫さんはこんな人

前回「その2」はこんな話でした。

1) トレイルラニングを大きく育てたい、たくさんの人に知ってもらいたい。当時の〈ザ・ノース・フェイス〉(以後〈TNF〉)のプロモーション担当の三浦務さんはプランを描く、その第一歩は「春に新しいレースを」だった。2007年5月。箱根の山々をぐるりとひと筆書きする「ハコネ50K」が開催された。エントリー総数は1200名、実走選手は1028名、当時国内では最大級の大会となった。

2)三浦さんのさらなる構想は、世界一と言われる「UTMB」で日本人選手を活躍させ、その一部始終を多くの人に伝えること。「ハコネ50K」で優勝した鏑木毅さんと間瀬ちがやさんには、副賞として「UTMB」出場のチケットが贈られた。そして横山峰弘さんと佐藤浩巳さんを合わせて4人が同年8月「UTMB」に参戦する。

3)惨敗。生まれてはじめての「UTMB」に日本のトップ選手たちはまったく歯が立たなかった。それでも鏑木さんだけは、一歩ごとに下肢の内出血のじゃぶじゃぶ音を聞きながら、一歩ごとに裸足で針を踏み抜くような激痛に脳天を貫かれながら、12位でフィニッシュした。

4)「UTMB」表彰式。シャモニの特設舞台を見上げる鏑木さんの熱い眼差しに気がついた三浦さんは、「来年は絶対にこいつを表彰台に上げてやろう」と心に誓う。そしてレース終盤の鏑木さんの壮絶な「とてつもない強い走り」を目のあたりにした〈TNF〉ヨーロッパ社長のトーファー・ゲイロードさんが、世界中の〈TNF〉関係者に「日本のカブラキはすごいぞ」と強烈にプッシュしてくれるのだ。

3万人が走った「東京マラソン」。

2007年は「走る人」にとっては特別な年だった。辛酸の「UTMB」は8月、「ハコネ50K」が5月、そして2月18日に第1回「東京マラソン」が開催されている。新宿・都庁から日比谷、銀座、浅草、そして有明・東京ビッグサイトまで。東京のド真ん中、主要幹線道路からクルマを締め出したランナー専用路42.195kmを、氷雨に打たれながらも3万人が走ったのだ。まさに歴史的な、前代未聞の大イベント。

そして、なにより素晴らしい。この「東京マラソン」は、経験不問、記録不問、「大会当日に満19歳以上で、制限の7時間以内に完走できる男女」であれば誰でも申し込むことができた。抽選(第1回大会は3.1倍)ではあるけれど、走ることが好きな人のための、真に一般市民のために開かれた大会だった。

雨、雨、雨の42.195km、それでも東京の目抜き通りを走れる気持ちよさは格別だった。撮影/内坂庸夫

「東京マラソン」を走りたいからランニングを始める、という人たちもあらわれた。それほどに「東京マラソン」は画期的だったし、魅力的だった、いまでもそうだ。「東京マラソン」は全国の大都市で「シティマラソン」の教科書となってゆく。

そしてフィットネス、ダイエットのためにと、走ったことのない人が走り出した。もう日本中が走り出した。「ランニング」は映像、印刷メディアに取り上げられ、用具用品は売れ、名所コースのそばにランニングステーションができ、サークルやクラブが作られ、講習会やイベントが開催される。

この社会現象ともいえる「ランニング」の成長を三浦さんは深く読みとっていた、「走ること」が日常になれば、週末に「山を走る」人たちが出てくるだろうと。

「斑尾フォレストトレイル50」

そして、忘れずにおいていただきたい、2007年にはもうひとつ記念すべき大会が始まっている。秋に石川弘樹さんが長野県飯山市斑尾高原で第1回「斑尾フォレストトレイル50」を開催している。日本初(と言っていいだろう)のトレイルランナーによる、トレイルランナーのための、「素晴らしい」トレイルを走るイベントだ。

それまでの「山を走る」大会の多くは山岳耐久や山岳マラソンと言われ、主催・運営は山岳団体や自治体の観光協会であり、収益や集客、地域活性のためのイベントであることが多く、コースも既存の登山道をそのまま使うことが普通だった。開催関係者の多くはロードでさえ走ったことのない人たちで、「山を走る楽しさ」を理解している人は少なかった。走らせる側も走る側も「山道を使った競走」という概念から抜け出せないでいた。

そこにトレイルランナーの石川さんが、「トレイルラニングというもの」をたっぷり楽しめる大会を作ってくれた。いちおうはタイムや順位を競うけれど、自然豊かな信州の山や森、湖などを仲間とともに巡るもので、ふかふかの落ち葉が敷き詰められたブナの森など、まさに極上と言われるトレイルを50kmも用意してくれていた。また、第1回大会から自然環境の保全を訴求し、大会前日には選手やスタッフで植樹を行っている。

2007年以来、「斑尾50」をお手本に、トレイルランナーたちがトレイルラニング大会を開催するようになってゆく。

ちなみに、石川さんは2009年に「信越五岳100」(翌年からは距離を110kmに延ばした「信越五岳110」)をスタートさせている。素晴らしいトレイルであることはもちろん、米国のレースで学んだドロップバッグやペーサー制度をとり入れた、これもまたトレイルランナーが仲間とともにトレイルラニングを楽しむ大会である。

まるでF1のピットじゃないか。

さあ、シャモニの出来事に戻ろう。2007年の「UTMB」が、生まれてはじめてだったのは選手だけじゃない、選手達を連れていった三浦さんもそうだ。スタート後はいつ、どこに、どう動いていいのか、わからない。いくらトーファーさんが作った社内資料を読み込んでいても、当日の現場を、進行の詳細を知らないのだから、ぶっつけ本番になるのは仕方ない。

「UTMB」が用意してくれた取材バスに『ターザン』と『ランナーズ』のスタッフとともに乗り込み、コースをまわった。バスはエイドに余裕を持って先まわりし、メディアがエイド前後の山中で選手を撮影できるようアレンジしてくれていた。そのエイドで三浦さんは「サポーター」という存在を知る。

「UTMB」が用意しているエイドステーションでは飲食提供の他に医療、休憩などのサービスがあるけれど、その中の5ヶ所のエイドでは、選手の友人や家族がサポーターとして、直に選手の世話をすることができた。

選手の好きな飲み物、食べ物を用意し、着替えをさせ、水やジェルを交換・補給し、夜であればヘッドライトの電池も取り換えてやる。選手の顔色や言葉から体調を把握し、さらに区間タイム、前後選手との時間差を確認して、選手が弱音を吐くようなら叱咤激励し、ときには甘やかしてその気にさせ、やる気満々そしてオーバーペースだったら、まだまだ先が長いことを教える。選手のその先の「走り」を物理的にもメンタル的にもリードするのがサポーターなのだ。そんな重要な役割をもつサポーターの存在を三浦さんは知らなかったし、そのサポート行為を公に認めている「UTMB」にも驚いた。

そして「とんでもない」ことを見てしまう。先頭争いの選手がエイドに到着するや、選手は大会が用意した飲食のテーブルには目もくれずにさっさと通り過ぎ、エイドの奥のサポータ-の用意してくれた椅子にどっかり。とたん、ひとりのサポーターが汗にまみれたザックを引き取り、シャツを着替えさせるや、新しい別のザック(飲食・装備が交換済み)を背負わせる。もうひとりが「好きなもの」を食べさせ、スポーツドリンクを飲ませ、順位や前後の選手の様子、この先のコース状況や天気を伝える。

その最中に、さらにもうひとりが靴を脱がせ、靴下を交換してやり、足裏にクリームを塗っている。太ももとふくらはぎをマッサージしている。電池交換したヘッドライトを頭にかぶせて「さあ、行ってこい!」「あいよ、じゃあ、次で!」と選手は飛び出してゆく。エイド滞在は5分もあったろうか?

えええ! そんなのありか?!「F1のピット」じゃないか! 三浦さんは愕然とする。(さすがに現在の「UTMB」では、サポーターは1名に限られ、エイドに持ち込める用具用品にも制限がある)

そうか、トップ連中はこんなことをしているのか! 5ヶ所のサポーターエイドも含め、9ヶ所すべてのエイドで滞在時間を5分ずつ縮めたら、それだけで45分も早くフィニッシュできる、鏑木さんは(2007年の「UTMB」なら)もうそれだけで表彰台に上がれている。

パスタはないのか!

そして迎えた2008年。『ターザン』523号『2008年ツール・デュ・モンブラン報告』からいくつかを抜粋しよう。

「もう無理だ、走れない、と思ったところからこのレースははじまる」、鏑木さんは前年の教訓を忘れない。カラダをいちど疲労困憊に、完全にオールアウトさせて、そこからもう一段高い負荷をかけた走りを繰り返す。一般人にはとうてい理解できない、真似できない激しいトレーニングを積み重ねてきた。

三浦さんは三浦さんで、シャモニ在住の日本人をガイド、ドライバーそして通訳としてキャスティングしている。クルマにはPC用電源が用意され、さらに衛星電波を受けとれる携帯電話も手に入れた。どの山中であろうが「UTMB」のライブデータにアクセスすれば、鏑木さんの現在位置、次のエイドへの到着予測時刻、順位、そして前後選手との時間差など、あらゆる情報が三浦さんのPC画面にあらわれる。彼がどんな状態なのか、どんな走りをしているのか、手にとるようにわかる。

2008年大会当日。教会広場のスタート最前列、それぞれの国を代表する選手たちが、誰が優勝してもおかしくない強豪が、立ち並んでいる。なかでも圧倒的なオーラを放っているのが2006年、2007年に優勝しているイタリアのマルコ・オルモ選手59歳(!)、鏑木さんが神とも仰ぐ存在だ。そのスターの列に鏑木さんは真正面から堂々と入り、彼らに肩を並べるのだ。「顔パス」、スタッフも選手も何も言わない。ビブには「Tsuyoshi KABURAKI」、その横に「日の丸」がプリントされている。前年12位のジャポネの名は、その壮絶な走りとともに、すでに「UTMB」に知れ渡っていた、「すごいぞ、こいつ」。

その通りに鏑木さんはすごい。21kmのサンジェルベで58位、31kmコンタミンで33位、77kmのイタリア・クールマイユールで19位にランクアップする。しかし、鏑木さんはお腹が空いている、スタートしてから水とジェルとバナナしか口にしていない、朝抜き昼抜きだ。「パスタはないのか!」 どのエイドでも食事の準備をしているが、トップグループの到着が早すぎて提供が間に合わない。腹ペコのまま、95kmアルヌーバを13位で通過し、コース最高峰2,537mのグランコルフェレを越えてゆく。その先、123km地点のシャンペ・ラクで、ようやくパスタにありつけた。がつがつとむさぼり喰う鏑木さん。平らげるなり飛び出して行く、エイド内でひとり抜いて8位になった、うわあ、表彰台だ。

無我夢中でパスタをかっこむ鏑木さん。エネルギーなしには走れない、けれどのんびり食べている余裕はない。

神をも抜き去った男。

シャモニまであと28kmという上り、あのマルコ・オルモさんが前を走っている。「UTMB」2連覇の59歳、鏑木さんが憧れ、神とも仰ぐオルモさんに追いついてしまった、しかもオルモさんが得意なはずの上り坂で。鏑木さんは抜けない、あこがれを抜いたらあこがれを失ってしまう、後ろにつく。ためらいの時は2分だったのか、3分だったのか。神は見かねて、まるで自宅に招き入れるかのようにカラダを横に動かし、道を譲ってくれた。神は口を利かないが、その瞳は雄弁だった、「何をためらっているんだ、さあ行け!」。

イタリアの英雄、マルコ・オルモさん。「UTMB」三連覇を目ざすこのとき59歳。

神に追いついてしまった鏑木さん、どうしよう。

夢から覚めたような思いで、鏑木さんは神を抜き去る。ついに4位に躍り出る。神から譲られた4位、誰にも渡さない、絶対に。

三浦さんは、最後のエイド150km地点ヴァローシーヌで鏑木さんを待ちかまえていた。そして到着のタイムと、後ろの選手を20分も引き離していることから、「この4位は間違いない」と。そしてその先のコル・デ・モンテ(エイドではないが、アクセスがよく、選手を間近に応援できる数少ないポイントのひとつ)で、さらに確信する。走りっぷりが前年と違う、まったくの別人だ。しかもこんなことまで言う。

距離が長いほどサポートのデキが選手の走りを左右する、三浦さんはよーくわかっている。

「三浦さん、日の丸はありませんか?」。去年は「ちっくしょー、きっつーい」と叫んだ男が、同じ場所で日の丸を欲しがっている。「え、日の丸?!」「そうきたか、よおし、用意してやろうじゃねえか」三浦さんは大急ぎでシャモニに戻り、日の丸を手配する。

2008年の「UTMB」は世代交代の年だった。スペインの20歳の学生が初出場して初優勝、3連覇を狙うレジェンドはリタイアし、山岳環境のまったく異なるアジアの青年が4位に入った。

8月31日午後5時42分、鏑木さんはシャモニの街に還ってきた。大通りに入るや沿道から日本人の男の子が大声をあげる、「かぶらきさあん!」。日の丸が手渡された、建国記念日や正月元旦に玄関に掲げる大きく立派な日章旗が。会場に近づくにつれ、大会MCが「ジャポネ カブラキ!」と何度も叫び、その度に大きな歓声と拍手が湧きあがる。最後のコーナーを曲がるとそこは花道、真正面に「UTMB」のゲート、そのど真ん中に三浦さんが仁王立ちしている。鏑木さんは速度を落とし、日の丸を手にゆっくりと進む。23時間10分47秒、第4位でシャモニに凱旋した。

鏑木さんは、笑顔で迎える大会オーガナイザーのカトリーヌ・ポレッティさんの手をとり、頭を下げた。これもまた満面笑みの三浦さんは、肩にその大きな立派な日本の国旗をかけてやった。

4人目の男。

その翌週、東京。大事なことなので繰り返すけど、鏑木さんが4位になったその翌週だ。なんたって「UTMB」2回目にして表彰台、それも4位、という大殊勲を演出した三浦さん。鬼をこてんぱんにやっつけて、金銀財宝を故郷に持ち帰った桃太郎のよう、東京の〈TNF〉でいい気分で仕事をしている。そこに、NHKの中尾益巳さんが訪ねてくる。

当時、中尾さんは、番組やイベントの制作、映像商品の販売などを手がける「NHKエンタープライズ」に出向していて、廃校となった神奈川県立三崎高校を舞台にした「ロックの学園」イベントのプロデューサーであった。

なぜNHKが〈TNF〉へ? これまた不思議な縁がある。ある年、突然の嵐、どしゃ降りに襲われて、修羅場と化したキャンプイベントで、クロサワ楽器(マーチンギター/バックパッカー)のブースの撤収を手伝ってあげたのが、たまたま隣で店を構えていた〈TNF〉のスタッフ。ギターは水濡れ厳禁、「わあ、どしゃ降り、どうしよう?」うろたえる楽器屋さんたちを、百戦錬磨のアウトドア屋がサクサク助けてあげた。恩義に感じてくれたクロサワ楽器さんが、「困った事があったらなんでも言ってください、お手伝いしますから」と。

そこから、「ハコネ50K」で「サザンオールスターズ」に欠かせないギタリストの斎藤誠さんがライブ演奏する、というとんでもないことが起こるのだ。

「ロックの学園」は文字通り音楽主体のイベントなので、クロサワ楽器さんがかかわるのは当たり前。そして、プロデューサーの中尾さんは協賛スポンサーを見つけたい、クロサワ楽器さんに相談したところ〈TNF〉の三浦務さん、と言う名前があがってくる。メールで面会アポをやりとりすると、8月はめちゃ忙しい、海外出張にも出かけている。ならば、と決めたのが「UTMB」の翌週、9月第1週だった。

三浦さんにしてみれば、音楽イベントのスポンサー協賛の話らしい、〈TNF〉の商品とは少し距離がある。とはいえ、クロサワ楽器さんの紹介だから、会わずに断るのも失礼だ。いちおうは、お会いしましょう、話しを聞きましょう、というスタンス。

中尾さんは中尾さんで、最初から協賛のお願いは口にしない。三浦さんに会うなり、開口一番、社交辞令ということもあり、「ところで海外出張って、どちらにいらしていたんですか?」と、三浦さんの仕事ぶりに興味があるふうを装う。

表彰式。4位の鏑木さんが舞台に招かれる、モニターに映るや大歓声、大拍手。

新聞にも載ってしまった。それほどに日本人コンビの活躍はすごかった、目立っていた。

三浦さんは「UTMB」から帰ったばかり。気分は鬼退治をやり遂げた桃太郎、どっさりのお宝に取り囲まれている。「いまのワタシにそれを聞きますか? 長いですよ、いいですか」。

実を言えば、山にも走ることにもまったく関心がない中尾さん、それでも持ってきた企画書をポイと脇にどけて、身を乗り出す。一昼夜眠らずに山の中を走る話を、熱心に聞き入るふりをするのだ。スポンサーになってください、とお願いをするのだから、相手の仕事が気になる素振りは見せておかなきゃ。好印象は大事、大人である。

三浦さんは同行したカメラマン柏倉陽介さんの写真を見せつつ、得意満面、これでもかと語りに語る。

と、中尾さんは「パスタをむさぼり喰う」鏑木さんのカットに目が留まる。「え、走っていて途中でものを食べるの?」 「え、なに、このがっつきぶり」。写真ひとつ見たとたんに、本気で三浦さんの「UTMB」話にのめりこんでしまうのだ。

2008年の「UTMB」が終った翌週に、2009年の「UTMB」が始まってしまう、後に「激走モンブラン!」というタイトルがついて。

日本のトレイルラニング、とりわけ100マイルレースにつながる物語。大きな役割をはたしている石川弘樹さん、鏑木毅さん、三浦務さん。その舞台にいよいよ中尾益巳さんを迎えることになります。

「その4」、いよいよ「激走モンブラン!」に続く。