直感のままに踏み出せば、自分だけの冒険が始まる|自分の旅のつくりかた。 vol.08 川内有緒(ノンフィクション作家)

旅は人生を彩る。旅に出る理由は人それぞれだけれど、自分にしかないテーマやモチーフを追い求める人は素敵だ。ふとしたきっかけから世界を自転車で旅し始めた編集者が、"旅の先輩"を訪ね、その真髄を聞く連載。​第8回は、軽やかに人生の選択をしながら旅を続ける、ノンフィクション作家の川内有緒さんを訪ねます。

interview, text: Satomi Yamada photo: Koichi Tanoue

Profile

川内有緒(かわうち・ありお)/1972年、東京都生まれ。映画監督を目指して日本大学芸術学部へ進学。米国ジョージタウン大学大学院で中南米地域研究学修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、仏のユネスコ本部などに勤務し、国際協力分野で12年間働く。2010年以降は東京を拠点に評伝、旅行記、エッセイなどの執筆を行う。『空をゆく巨人』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。近著の『ロッコク・キッチン』(講談社)では、同タイトルのドキュメンタリー映画の共同監督も務める。

人生の大きな流れに身を任せるということ。

「もしかしたら、わたしにもできるかもしれない」

川内有緒さんの著書を読んでいると、ふとそんな気がしてくる。

彼女の存在を知ったのは、いまから5年ほど前のこと。尊敬する編集者の先輩であり、読書案内人としても活動する河野通和さんから「おもしろい作家がいるよ」と教えられたのがきっかけだった。

河野さんの仕事部屋はいつも本で溢れ返っている。床が抜けてしまうのではと心配になるほどの蔵書量だけれど、きれいに整頓された本は一冊一冊がグラシンペーパーで巻かれていて、書物への深い愛情が感じられる。その膨大なコレクションの中から勧めてもらったのが、『空をゆく巨人』だった。

この本は、世界的現代アーティストの蔡國強と、福島県いわき市に暮らす破天荒な実業家・志賀忠重という、国境を越えた二人の男の熱い友情と、途方もないアートプロジェクトの軌跡を描いたノンフィクションだ。

蔡國強といえば、火薬を爆発させて描く絵画で広く知られているが、当時のわたしは「世界的に活躍するアーティスト」という程度の認識しか持ち合わせていなかった。この本を通して二人の凄まじい熱量を知ることになるのだが、不思議と他人事とは思えない親しみを覚えた。圧倒的な才能を持つ彼らが、同時に自分と同じ「普通の人間」として存在している。それは間違いなく、川内さんのフラットな眼差しと、その筆致によるものだ。

2018年に刊行された本作は、選考委員から高い評価を受け「第16回開高健ノンフィクション賞」を受賞した。川内さん自身のキャリアにおいて、作家としての評価を確固たるものにした代表作のひとつ。

その後、川内さんのエッセイもいくつか手に取った。もちろん彼女自身も非常に能力が高く、相応の研鑽を積んできた人であることは間違いない。けれど、誤解を恐れずに言えば、文章から伝わってくるのは、人生の大きな流れに身を任せ、その時々で下した決断が、まるで偶然のように次々と大きな花を咲かせていったという軽やかな感覚なのだ。

だからこそ、彼女の言葉に触れると、自分も一歩踏み出すことさえできれば、いつか夢は叶うのではないかという勇気をもらえる。

そんな川内さんの源流には、常に「旅」がある。初めて海を渡った15歳での原体験から、思いつきのように飛び込んだ異国の地での日々、そして初めて物書きとして仕事をしたシルクロードの道。そうした旅の数々が、彼女の好奇心を育み、生きていく道筋を形作ってきたことは明らかだ。

川内さんのプロフィールには、「いつか冒険家になりたい」と書かれている。 やっぱりそうか、と腑に落ちる思いがした。でも、彼女の考える「冒険家」ってどんなものなんだろう。

その胸の内を知りたくて、この連載でじっくりとお話を聞かせてもらうことにした。

恵比寿の秘密基地と、型破りな旅の原点。

川内さんは執筆業の傍ら、恵比寿駅西口から徒歩2分の一角で、妹の新谷佐知子さんとギャラリー〈gallery and shop 山小屋〉を運営している。土地勘のある人なら、恵比寿横丁の入り口がある通りで、〈猿田彦珈琲〉の2軒隣、食堂〈こづち〉の右横と言えば伝わるだろうか。

5畳ほどのこぢんまりとしたスペースには木製のテーブルと椅子が置かれ、壁には3枚の絵が飾られていた。

川内さんのエッセイにたびたび登場する、エツツさんの絵を実際に見ることができて感激。パリの伝説のスクワット〈59 RIVOLI〉での2人の鮮烈な出会いについては、『パリでメシを食う。』(幻冬舎)に詳しい。

「この絵は、わたしが初めて物を書くきっかけになった、エツツ(エツコ・コバヤシ)さんという画家の作品です。毎年ここで個展を開いていて、そのときにわたしも買ったりするので、今日はその一部を飾っておきました」

川内さんは、生まれも育ちも恵比寿で過ごした。そんな彼女の原点を探るべく、取材の場には、都会の喧騒のなかにひっそりと佇む、この秘密基地のような空間をお願いした。

「もともとは、母と友人が作ったバッグや小物を売るために開いたお店だったんです。母が60代になったころ、人生の後半も楽しめる場所にしようといまの形に改装しました。いろんな人がそれぞれ旅をしている途中に、気軽に立ち寄って少し休んで、また自分の旅に戻っていく。そんなコンセプトで作りました。社交的な母は、いろんな世代から人気なんですよ」

〈gallery and shop 山小屋〉では、年に5回程度の企画展が開催されるほか、それ以外の時期はレンタルギャラリーとして幅広く活用されている。

人を迎え入れ、場を作る。そんな活動的な母の影響は、川内さん自身の旅の原点にも深く関わっているのだろうか。幼少期の記憶を尋ねた。

「父は型破りで家庭を顧みない人だったから、家族旅行をしたことがなくて。唯一、父の仕事のついでに福島県の郡山に1泊したくらい。父の実家の福井へ行くことはあっても、家族みんなで純粋な旅をした記憶はまったくないですね。その代わり、母が熱心にいろんな場所へ連れて行ってくれました。近所には親戚のように仲のいい家族がいっぱいいたから、冬はスキーに、夏は川へ行ったりもしました」

「人生の航路が変わった」と川内さんがいう旅は、1987年、中学を卒業したばかりの15歳の春休みに訪れた。

「母校である広尾小学校の合唱団と一緒に中国へ行きました。わたしは、OGとしてピアノを弾く要員として参加。当時、音楽の高橋先生は合唱に熱心で、数々の大会で優勝に導いてきた指導者でした。その先生が、小さい頃に満州から引き揚げてきたとき、兄弟を亡くしてしまったという経験があって。だから中国へ行ってみたい、という先生の話から始まったんです。母たちが企画して、2年間かけて準備し、総勢100人ほどで行きました。中国で見るものはすべてが新しくて、『感動するってこういうことなんだ』と、初めて理解したことを覚えています」

想像してみてほしい。外国人観光客の受け入れが始まっていたとはいえ、当時の中国はいまとは比べ物にならないほど渡航するハードルは高かったはずだ。 個人旅行は制限され、複雑なビザの取得に、外国人のみを対象とした「外貨兌換券」という二重貨幣制度まで存在していた。

ましてや、海外へ行くのは初めてという人ばかりなうえに、多くの子どもを連れて海を渡る。その行動力と熱量は、いまの時代にわたしたちが想像できる遥か上をいくだろう。

軽やかな直感が切り拓く、偶然という名の必然。

そんな旅を経験したあと、日本での生活に物足りなさを感じることはなかっただろうか。

「海外へ行ってみたいという気持ちは、強くなりましたね。高校生のとき、椎名誠さんが楼蘭へ行くテレビ番組『楼蘭 シルクロードに消えた幻の王国』が大好きで、自分もいつか絶対にシルクロードへ行ってみたいと思いながら録画を何度も見ていました」

テレビを見て未知の砂漠に思いを馳せていた川内さんの次の旅先を決めたのは、ここでもまた、母の類まれな社交性だった。

「大学に上がって、19歳のときに初めてアメリカとジャマイカへ行ったのが、次の大きな旅でした。もともと実家の隣にアメリカ人の一家が住んでいて、母と仲が良かったんです。その家族が故郷のフロリダに戻ったので、『そこを訪ねたらいいんじゃないか』という話になって。まずは大学の友人とフロリダへ行き、1ヶ月滞在しました。友人が帰国したあと、当時付き合っていた彼のお姉さんがワシントンD.C.に住んでいたので、そこを訪ねようと移動して。そしたらお姉さんが『みんなでジャマイカへ行こう』と言い出して、彼も日本から合流してジャマイカへ向かいました」

2ヶ月の刺激的な旅を終え、大学生活に戻るも、日本での暮らしに行き詰まりを覚えるようになった。映画作りを志し、日本大学芸術学部に通いながらも、何かが違うと感じていた。

「このまま日本で就職するのはあり得ないけれど、自分には何もないというのはよくわかっていて。だから、卒業したらアメリカに行くしかないって、思考が一足飛びになっていたんです。お姉さんも、『来ちゃえばいいよ、うちで寝泊まりできるし』と言ってくれて。それで、まずは3ヶ月だけでもとすぐに行ったんです。そこでお姉さんと話しているうちに、アメリカの大学院に行こうという結論になって。それで、大学院受験を始めて…」

そこまで話すと、川内さんの声のトーンが変わった。

「受験して、合格して、そのまま大学院に入りました」

なんだか、急に話が端折られた。

「自分の人生を振り返ると、いつも恥ずかしくなるんですよ(笑)。そんな理由で進路を決める人がいるのかって感じですよね。夢や目的を持って進んだことも、強い意志を貫いて何かをやり遂げたこともないんです」

その場は笑いで包まれた。そんな思いがあったのか。誰もが羨むような行動力について、本人は照れながら話す。つまりそれは、頭で考えてできることでも、他人が真似しようとしてできることでもないのだろう。

それでも川内さんは、その後も「本当に恥ずかしいのですが…」という枕詞を繰り返した。

躊躇なき挑戦と、もうひとつの「冒険」の始まり。

そんな行動力もさることながら、驚くべきはそれらをやり遂げてしまう推進力にもある。大学院入学当初は、授業を理解できないほどの語学力だったというのだから、言葉を失う。

「最初はまったくわからなかったです。それに、社会人経験のある人もいれば、ピースコー(アメリカの青年海外協力隊のような組織)としてアルジェリアで活動した人、国連難民高等弁務官事務所で働きながら通っている人もいて。わたしなんて、ひよこ以下の存在でした。外交学部で中米を専門に選んだので、スペイン語もゼロから始めなきゃいけなかったから、もう地獄でしたね……。2年間、全速力で走り続けるのは本当につらくて、何回も辞めたいと思ったけれど、いま辞めたらまた何もない自分に戻ってしまうと思って、なんとか卒業しました」

2004年からの約5年半、川内さんはパリの国連機関に勤務。そこでエツツさんら多彩なアーティストや移民たちと出会ったことが、ノンフィクション作家としての原点となった。当時の濃密な日々は、この2冊のエッセイに詳しく綴られている。

セーヌ川に架かるポン・デ・ザールの上で、国連時代の同僚たちと。左に写るアルジェリア出身のソヘールは、パリで初めて心を許せた大切な友人。右に写るのはベルギー人のステファニー。

少し話は飛ぶけれど、その後、彼女はフランスへ渡って国連職員になるのだが、当時の出来事を綴った著書『パリの国連で夢を食う。』のなかに、どうしても忘れられないエピソードがある。

パリの国連機関での公用語は英語とフランス語。どちらが使われるかは、所属部署のトップ次第だという。しかし川内さんは、パリの職場に到着し、同僚と話すまで、自分の部署がどちらの言語で業務を行っているのか知らなかったというのだ。著書には「ここに来るまで実に不安だった」と記されている。

もし職場の言語がフランス語だったら、どうするつもりだったのか。実はそんな質問を用意していた。けれど、ここまでの話を聞いて、その質問を取りやめることにした。言語に限らず、彼女を躊躇させるものなど、最初から存在しないと理解したからだ。

「物事に挑戦するハードルはすごく低くて、『あ、なんかやれる気がする』っていつも思っちゃうんです。でも実際は『全然大丈夫じゃない!』ってなる(笑)。何をやるにしても、その苦労が毎回自分に降りかかってくるんですよね」

何かを始めるとき、あまり難しく考えずに、まずはやってみる。できるかどうかは、事前に考えたところでわからないし、できることばかり挑戦したって仕方がない。結果がどうであれ、挑戦することでおのずと次の道が開けていくのだろう。

川内さんの話を聞いていると、ふとそんな風に思えてくる。

最後に、いまの川内さんにとって「冒険する」とはどういうことか、尋ねてみた。

「娘が生まれてから、命の危険を伴うようなフィジカルな冒険からは距離を置くようになりました。以前、国際協力の仕事をしていたときは、何かあってもしょうがないと危険に鈍感になっていた部分もあったのですが、あるとき海外のテロ事件を機に、『これを繰り返していたら自分もいつか死ぬかもしれない』と実感して。 ただ、新しいことをやらないと気が済まない性分なので、仕事の中で冒険をしようと発想を切り替えたんです。言うなれば、人間の内面へのダイブですね。1人の人や1つのテーマを通じて、まだ誰もやっていないことをやれば、それは自分にとっての冒険になる。『空をゆく巨人』を書いているときにその思いを強くして、その後は目の見えない白鳥さんと一緒に世界の見え方を探求したり、中学生からの夢だった映画制作に挑戦したり。娘が0歳のときに始めたDIYによる小屋作りもそうです。遠くへ行かなくても、ずっと探求しがいのある『もうひとつの冒険』を、いまもずっと続けています」

山梨県のとある丘に、川内さんがセルフビルドで建てた小屋。東日本大震災で感じた無力感をきっかけに、不透明な社会を生きる娘に何を残せるかと模索して辿り着いた場所。「何歳からでも新しいことに挑戦でき、“楽しさ”は自分で生み出せる」と語る、豊かな時間の結晶だ。

結末がわからないからこそ、自分だけの旅が始まる。

旅に出る前には、立派な目的や周到な準備が必要だと思い込んでしまうことがある。けれど、川内さんの旅の始まりはいつも「なんかやれる気がする」という軽やかな直感だけだ。もちろん、飛び込んだ先には「全然大丈夫じゃない!」という苦労が待っている。それでも、結末がわからないからこそ、それは誰の真似でもない自分だけの旅になる。

遠い異国へ行くことだけが冒険ではない。目の前にいる人の話をちゃんと聞いてみる。「これだ!」と思ったテーマにとことん没頭する。いつもの暮らしをほんの少し変えてみる。川内さんが教えてくれた、自分の内側へ深く潜っていくようなもうひとつの冒険なら、いま、この場所からでも始められる。

「もしかしたら、わたしにもできるかもしれない」

根拠はないけれど、その小さな予感を手放さず、まずは次の一歩を踏み出してみようと思う。そこから間違いなく、わたしだけの旅が作られていくはずだから。