「もうすべてにadaptiveしているかも。 逆に生命力が上がってますね」 adaptive surfer勝倉直道(後編)

その人の目は澄んで、まっすぐだった。海水と太陽光が、色素と共に毒気をさらってしまうのか。人生を左右するほどの大怪我に見舞われ、変わらざるを得なかった日常はしかし、新しい視座をもたらした。動きづらい自分にadaptive(適合・適応)しながら、毎日のように波乗りをする。連載「怪我こそ、私。」後編。adaptive surfing日本代表の勝倉直道さんが、目指す地平を訊いた。

取材・文/村岡俊也 撮影/松本昇大

サーフィンをする勝倉直道さん

ウェットスーツに着替える際にチラリと見えた上半身の刺青は、2024年に世界チャンピオンになった記念に友人が彫ってくれたものだという。左前腕には、不死鳥の姿。「ほら、燃えた中から復活したから」と勝倉直道さんは笑った。上半身の筋肉は、とても還暦を過ぎているとは思えないアスリートのそれだった。

サーフボードを脇に抱えてアパートを出て、足の可動域について説明を受けているとあっという間に大磯のビーチに着いた。快晴の天気に、モモ腰サイズの小ぶりな波が入ってくる。「では、行ってきますね」と軽く手を上げて、勝倉さんは海へと入っていった。パドルのスピードが早く、とてもスムースに波を捕まえ、乗っていく。

一般サーファーとはテイクオフの仕方が違うが、その日に入っていた誰よりも波に乗っていた。もっと波が良ければ、きっとキレのあるターンをするだろう。背中を波側に向けるバックサイドでは、両足で膝立ちし、ニーボードのように乗っていく。その日のビーチは、透明度の高い冬の海がキラキラと光を反射して、なんとも言えない多幸感に包まれていた。 

サーフボードの上に立とうとする勝倉直道さん

勝倉さんの流れるようなテイクオフ、シークエンス。

勝倉さんの流れるようなテイクオフ、シークエンス。

ショートボードに乗り換えて、世界に挑む。

大火傷から復帰して、年に数回のロングボードでのサーフィンから、大会に参加したいと思うようになったのは、悔しさからだった。

「友だちがいるから、いろんな大会に遊びに行くと『おお、元気か。お前、入院してたんだってな。一回死んだって聞いたぞ』とか言われて(笑)。それでジャッジ(採点係)をやらされちゃうんです。『人が足りないからさ』って。僕が散々、大会に出ていたのもみんな知っているから。でも、やっぱりジャッジをするよりも、選手で出たい。でも、この足で試合に出ても勝てないですから。上手くなってから出ようと思って、練習するようになりましたね」

今では、ショートボードに乗って、一般サーファー向けのローカル大会にも腕試しのために出場し、オープンクラスで優勝している勝倉さんだが、2017年のISA World Para Surfing Championshipという国際大会に日本代表として初めて参加するまでは、9フィートのロングボードで試合に出場していた。

「その時は確か10位でフィニッシュだったかな。2回戦で負けた時に、短い板に乗っているうまい選手がいたんですね。これは、長い板で滑っているだけでは勝てないと思って、幅の広い初心者用の6フィートぐらいの板を手に入れたんです。乗ってみたら、めちゃくちゃ乗れた。僕は足を前に回すんで、短すぎると前が沈んでしまうんです。それで、どの長さがベストなのかを研究して、今では色々とわがままを聞いてもらって、板を作ってもらっています」

ショートボードの方が動かしやすく、技を入れて得点を稼ぎやすい。短い分だけ不安定になってしまうが、それは練習によってカバーする。ロングボードでゆったりと波と戯れるだけでなく、勝倉さんにとってサーフィンはずっと、人と競い合いながら楽しむものだった。目標に向かって少しずつ近づき、自分の能力を引き出して叶えてしまう。まさしくアスリートとして復活を遂げる。

「adaptive surfingのadaptiveは、日本語で言えば『適合的な、適応的な』みたいな意味です。人間の体って、絶対、適応能力があるんですよ。僕の足だって、足首の動きがほとんどなかったから、車の運転もブレーキを強く踏んでしまったり、調節が難しかったんですね。でも、続けて訓練している間に、下手かもしれないけれど、なんとかできるようになるんです。体力や技術は、続けていけばなんとかできる。だからね、嘘でもいいから言っちゃうんです。世界一になるぞって。言葉で言ったら、自分が後に引けなくなるから。それが、自分が前に進むための原動力になるんですよね。僕はもう、まず言っちゃう(笑)。有言実行。パラリンピックに出場したいんですよ。それが今の目標です」

勝倉直道さんが、2028年のロサンゼルス・パラリンピックで、パラサーフィンが種目から外れたことに抗議してつけていたリストバンド。

2028年のロサンゼルス・パラリンピックで、パラサーフィンが種目から外れたことに抗議してつけていたリストバンド。

勝倉直道さんがこれまでに獲得したメダルやトロフィー。「E.YAZAWA」のプレートがチラリと見える。

これまでに獲得したメダルやトロフィー。「E.YAZAWA」のプレートがチラリと見える。

今を楽しんでいるから、未来像を描くことができる。

2028年のロサンゼルスで開催されるパラリンピックでは、普段は何もないビーチに特設会場を設置しておく予算が足りないという理由から、サーフィンは開催種目から外されてしまった。勝倉さんたちはメッセージを記したリストバンドをつけて国際大会に出場するなど、抗議活動も続けているが、現状では2032年のブリスベン開催のパラリンピックが、現実的な目標になっている。もしも出場できるチャンスがあったとして、その時に勝倉さんは68歳。同じSTAND3のカテゴリーに他にライバルが現れるかどうかはわからないが、「どうにか出場したいですよね」と目を輝かせる。そのために、日々、海に入り、筋肉トレーニングは欠かさない。

「いつまでサーフィンができるんだろうなとは思いますよ。フィニッシュの時期が近づいているわけで、だとしたらなおさら、楽しまないと。今が楽しくなかったら10年スパンで計画を作っていこうという考えにはなりません。だから、波があったら海に入らなきゃ。みんなに言われるんですよ、あちこち足に傷ができていたりするから『そんなにしょっちゅう海に入らなくてもいいんじゃない?』って。いやいや、僕は入りたいから入ってるんです」

波に巻かれて気持ちの良い顔をしている勝倉直道さん

波に巻かれて、この表情。生きている実感という言葉が浮かぶ。

両足の移植された皮膚は、今でも脆く、ちょっとぶつけただけでも傷になってしまう。通常の皮膚に比べれば治りも遅く、常にあちこちに傷がある。神経がないために痛みはないが、海に入れば感染症のリスクもあり、日常的なケアにも時間がかかる。

それでも「海に入りたい」という思いの強さに、アスリートとしての意志と、海の不思議を思う。毎日のように海に入っているサーファー特有の日焼けした目は、澄んでいて、浄化されているようにさえ見える。勝倉さんの前向きさに甘えて、思わず「事故の経験が人生を豊かにしていませんか?」と訊いてしまった。勝倉さんは、得たりという顔をして、「正直、障がい者になったことによって、自分の人生が100倍切り開けたと思います」と言った。

「昔は楽しければいいんだっていう考え方しか持てなくて、それで生きてきたから、社会から外れているような気がずっとしていたんですね。自分の中で、ですよ。定職に就いて、家庭を持って、一般的な生活を送るなんて、できないと思っていたから。ずっと中途半端で、働き出してからも近道がないのかなって思っていた時に事故に遭った。痛いし、死ぬ寸前だったし、でも障がい者になったことで、一歩も二歩も外から自分も社会も見られたんでしょうね。客観的になって、そんなに焦ってもしょうがないじゃんって思うようになった。今の自分のあるべき姿で生活していけばいいじゃんって。そういう気持ちになれたことが、心の安定にもつながっていると思います」

自宅前でシャワーを浴びる勝倉直道さん

自宅前でシャワーを浴びながら。サーフィンが、心を解放する。

海辺の小石
自宅前のシャワー

培ってきた経験が、日々の変化を後押しする。

サーフィンをしている勝倉直道さん

勤めていたヤマト運輸での仕事も、復帰直後にはドライバーをしていたが、内勤として役職を目指すように促され、道筋をつけてもらった。大磯に引っ越した際にも、本来ならば管轄が違うために一度辞職する必要があったが、異動という形で、同じ待遇のまま神奈川支社で定年を迎えることができた。かつての部下たちとの付き合いは今でも続いていて、大磯までサーフィンしに来るという。

波乗りをしながら仕事をし、子どもを3人育て、今では孫までいる。自分の中にあった社会に対する違和感を、改めて感じる暇などなかったのかもしれない。自分を達観したように眺められるようになったのは、やはり大怪我のおかげだと、勝倉さんは言う。

「メンタルの安定って、サーフィンの試合でもすごく大事なんですよ。初めて日本人が海外勢の中に混ざって試合をしたら、緊張しますよね。僕も最初はそうでした。でも2回目からは、ただ外見が違うだけ、ただ言葉が違うだけだよなって思うようになった。ホント、培ってきたもののおかげなのか、もうすべてにadaptiveしてるというか。瞬時に適応できるようになっている気はしますね。逆に生命力が上がってる(笑)」

プロサーファーとして、スポンサーからのサポートがあるとは言え、年に数回の海外遠征には年金と蓄えを切り崩しながら臨んでいる。安い航空券を探し、宿泊代を浮かすために友人の家に泊めてもらう。日本の料理を振る舞って、帰り際にはすべての部屋を掃除する。すると「来年はチームジャパンで泊まったらいい」と、関係が深くなっていく。

日々を積み上げながら、アスリートとして生きる喜びに溢れた笑顔を見せる勝倉さんと、大磯の海から歩いてアパートまで戻った。駐車場の脇に側溝を自分で掘って、水が流れるように工夫してあるのだという。ベランダでシャワーを浴びて、念入りに海水を流すその足は細く、生々しい傷跡もある。けれど、隠すことなんてしない。自分はこんな人間です、と、初対面の私にも朗らかにさらけ出してくれる。

その強さがどこからくるのかと、やはりもう一度、考えてしまう。海とサーフィンのエネルギー。それから、棚の上に「E.YAZAWA」のプレートがあったことをカメラマンの松本昇大が話題に出すと、嬉しそうに、毎年ライブに行っていることを教えてくれた。そうか、自分を律する言葉の数々は、YAZAWAイズムだったか。妙に納得しつつ、けれど、それは海の潮と混ざり合って、勝倉イズムと呼ぶべきものに醸成されているのだと思った。

Profile

勝倉直道(かつくら・なおみち)
1964年生まれ。神奈川県大磯町在住。1995年、バイク事故で両足、右腕に大火傷を負う。2017年から海外のパラサーフィン大会に出場している。2024年にはプロツアーAASPで総合優勝を果たす。同じく2024年ISA World Adaptive Surfing Championship3位など数多くのメダルを獲得し、日本代表として活動している。