わかれ道の度に、サーフィンを選ぶ。
定年退職を迎える前に、海まで歩いて行ける環境を整えたのは、本気で世界一を目指したかったからだ。40年以上通っている大磯海岸まで、徒歩一分のアパートで暮らして5年になる。
10代でサーフィンを始め、東京で生まれ育ったにもかかわらず、ほとんど毎日のように海に入る生活を送るようになった。アマチュアの大会で何度か優勝し、22歳までは本気でプロサーファーを目指したが、結局、プロテストには合格できなかった。
けれど、それから40年近く経った2024年に、念願だったadaptive surfingのプロツアーで世界チャンピオンになる夢を果たす。USオープンの優勝記念には、まるでプロレスのようなチャンピオンベルトをもらった。国際大会のその明るさが好きだと勝倉さんは笑う。日本では、主催者も観客もシリアスになりすぎるのかもしれない。
もうひとつ、パラリンピックへと繋がる国際大会であるISA World Para Surfing Championshipでは、まだ金メダルを獲得できていない。勝倉さんが出場する〈STAND3〉というカテゴリーは、「膝上切断、両下肢切断、先天性もしくは障がい同等の状態で、立った状態で波に乗るサーファー」と規定されている。
勝倉さんの両足は、29歳の時に事故で負った大火傷のために、今でもほとんど筋肉がない。サーフィンに求められる瞬発的な屈曲運動は難しく、足首の可動域も狭い。テイクオフと呼ばれるサーフボードの上に立つ動作だけでも、相当な技術がいる。寝そべった状態から、まず右足で膝立ちし、曲げづらい左足を大きく回すようにして前に持ってきて、バランスを取りながら両足で立つ。サーフボードに足首の角度を合わせるのが難しいため、「点」でバランスを取りながら、繊細な体重移動で波に乗っていく。
勝倉直道さんにとってサーフィンは、人生の道標のようなもので、「わかれ道のたびにサーフィンを選んだおかげで、今の自分があると思うんです」と言った。波さえあれば、必ず海に入る生活を続けている。

2024年、国際プロツアー「AASP」でワールドチャンピオンとなって、獲得したベルト。

US .Open adaptive Surfing Championshipで優勝した際のメダル。「まるでラッパーみたいだよね」と笑う。
事故に遭ったのは、結婚し、生活を安定させるためにヤマト運輸でドライバーとして働いていた29歳の時だった。その日は夜遅くまで会議をしていて、23時過ぎにバイクで家へと帰る途中だった。車通りの少ない街道の信号を青で通過した時に、横から原付バイクがノンストップで突っ込んできた。
翌日の休みに備えて満タンにしていた勝倉さんのバイクのガソリンに、火花が散ってしまう。火柱が5m近くも舞い上がり、その火のついたガソリンが、意識を失って倒れている勝倉さんに降り注いでしまった。すぐ先にあったバス停にいた女性が慌ててコートをかけて消し止めてくれた。穿いていたズボンもパンツも、下半身の洋服はすべて燃え、上半身はアメリカ空軍が着用する本物のMA-1を着ていたために、袖口が燃えただけで済んだ。
近所にあったタクシー会社がバケツリレーをして周囲の火を消し、勝倉さんにも水をかけた。水の冷たさに一瞬だけ意識を取り戻し、次に目を開けた時には手術室だった。
必死で自分の心を落ち着かせていた。
結局、入院は一年間に及んだ。全身のうち52%が火傷を負い、皮膚移植を繰り返したためになかなか病院から出られなかった。両足のほとんどの筋肉まで燃えてしまい、骨に皮膚を貼り付けているような状態。勝倉さんは、どうやったら精神状態を保てるのだろうかと、必死で考えていたという。
「入院して『あ、もうサーフィンできないの?』って最初に思ったんです。当時はスキーもやっていたから、いろんな薬のせいで雪山の幻想を見たりして。やりたいことをずっと考えていて、相当ノイローゼになって、ヤバい時期もありましたね。運動していないから夜も寝られないし、どうやったら立ち直れるのか、自分の中ではずっと模索していました。それで、落ち込まないために、とにかくいろんな人と会話をするようにしたんです。若い頃には水商売の店長もやってたから、お客さんと喋ることが大好きだったんですね。バーテンダーをしていたこともあるから。最終的には看護師さんから、『落ち込んで病室から出られない人のところに行ってくれ』って頼まれるくらいにまでなってました。病院のアンバサダーみたい(笑)。足を切断して親にも顔を見せないっていう女の子のところに、もうしつこいくらい通った。一緒に入院していた三人くらいでゲラゲラ笑いながら押しかけて、『みんな怪我人なんだからさー』って。最後にはね、立ち直らせましたよ」
自分に意識を向けるのではなく、むしろ外へと開くようにして心の平安を保ったという。無理にでも自分を開いていくことが、人生が一変した大事故を受け入れるために必要だった。他者と話しをするその過程で、勝倉さんは「人の気持ちになって考えてあげることが、結局、自分に返ってくる」という気づきを得る。あなたの痛みは、私にならわかる。その思いこそが、自分を支える力の源になっていった。

キッチンの脇には、大会の思い出を詰め込んだ写真が飾られていた。
新しい自分を受け入れるためのセカンドステップは、「絶対に許さない」と悶々と思い続けていた、事故を引き起こした青年との直接の対面だった。まだ若かった事故の当事者は、半年間、病室に現れなかったという。勝倉さんが何度も警察に頼み、ようやく連れてこられた相手を前に、「どうして来なかった?」と訊くと、「怖かったから」と言った。その一言に勝倉さんの不良時代のスイッチが入り、思いっ切り声を荒げて罵倒したという。けれど最後には「これからは何かあった時には、きちんと謝れる人間になれよ」と諭して帰した。
以来、その相手とは一度も会っていない。事故から半年間、どんな人間なのだろうと想像している時間は苦しかったが、実際に会ってしまうと「まあ、いいか。そいつをやっつけても治らないから」と思うようになった。思い出すのも嫌なはずの、想像を絶するような苦しみがすでに自身の血肉として溶けている。勝倉さんは、それから誰かに対して怒りをぶつけた記憶はないという。

いつもならば自転車で向かう海まで、その日は一緒に歩いた。

国道134号線の高架を潜って、大磯の海岸へ。小さいが、波があった。
もう一度、海へ。忘れられない風景。
退院後、移植した皮膚が定着し、ある程度の日常生活を送れるようになるまで、5年近くかかった。人工移植の薄い皮膚は、ほんの少しぶつけただけでもすぐに切れてしまう。擦れてしまうために、ズボンすら穿けなかった。松葉杖をつきながらリハビリを繰り返し、ようやく皮膚の赤みが取れてきた頃にヤマト運輸にドライバーとして復帰する。助手をつけてもらって配送業務をこなしているうちに少しずつ自分の足首に体重をかけることができるようになり「これは、もしかしたらサーフィンできるかもしれない」と、思うようになった。
「ある程度落ち着いた頃にサーフィンをやっていた時の後輩が『そろそろ気分転換に行かない?』って誘ってくれたんですね。それで海に入ってみたら、当然、立つことはできなかったんですけど、波に押されて滑る感覚だけで、もう涙が出たんですよ。5年ぶりくらいかな、海に入って、諦めていたものが、もう一度できた時に、やっぱり涙が出ちゃいましたよね。すげえ! って。サーファーあるあるですけど、やっぱりここが自分の生きる場所だよねって思えた。やっぱりその瞬間に、生きてるって思えたんですよね」
事故の前にはショートボードに乗っていた勝倉さんは、ドナルド・タカヤマの9‘11のロングボードを先輩から手に入れて、寝そべって波に乗る感覚を取り戻していった。当時は子どもが産まれたばかりで、ドライバーから内勤に異動し、懸命に働いている時期だった。誰かに付き添ってもらわなければ海には行けず、年に数回のサーフィンだったが、それでも明らかに自身の心と体は変化していった。
「まあいいかと思いながらも、ずーっと腹の中ではぐらぐらしていたんだと思うんです。障がい者になって、もう一度サーフィンをやり直して、仕事も少しうまく回るようになって、一般の人に近くなったなって感じたくらいから、『もうこんなことを言っていてもしょうがない。今の自分を受け入れないと、また言うだけの人間になっちゃったら、きっとつまんない人生だな』って思えたんです。先天性で足がなかったら、それが自然だから、大人になっても感覚的には変わらないですよね。でも、僕みたいに後天的にそうなった人間は、やっぱりどこかで切り替えない限り、ずーっとそこで止まってしまう。やっぱり僕は波乗りに助けられたんです。波乗りを選んでおけば、間違いないから」

勝倉さんはとにかく明るく、チャーミング。リラックスして海へと入る。
怪我によって、運動をストップせざるを得ない状況は、強制的に人生について考える時間をもたらす。10代の頃から「楽しければいい」という快楽的な思考で生きてきた勝倉さんは、今でも「楽しい方がいいんじゃない?」と思っている。だが、その「楽しさ」は、果たして同じ意味だろうか。事故の前に乗っていた波と、事故後に寝そべりながら見た波の風景が全く違って輝いたように、この世界の見え方は、経験で一変する。
「前だったらもっと大きく板を回してスプレーを飛ばしたりできていたのが、今はできないんです。今でも、葛藤はありますよ。でも、それは昔の思い出に浸っているだけだから。今の体でできることをやろう、と」
そう言って、日焼けした顔をこちらに向けた。

Profile
勝倉直道(かつくら・なおみち)
1964年生まれ。神奈川県大磯町在住。1995年、バイク事故で両足、右腕に大火傷を負う。2017年から海外のパラサーフィン大会に出場している。2024年にはプロツアーAASPで総合優勝を果たす。同じく2024年ISA World Adaptive Surfing Championship3位など数多くのメダルを獲得し、日本代表として活動している。





















