戦国時代の侍は1日6合食べていた!? 縄文から現代までの「日本の糖質史」
糖質制限する現代人を見たらご先祖様は腰を抜かすに違いない。米とは約3000年、砂糖とは数百年の付き合い。日本人と糖質の歴史を振り返ってみよう。
取材・文/井上健二 イラストレーション/雉○/Kiji-Maru Works 取材協力/東四柳祥子(梅花女子大学食文化学部食文化学科教授) 参考文献/『日本の食文化史年表』(江原絢子・東四柳祥子/共編、吉川弘文館)、『日本食物史』(江原絢子・石川尚子・東四柳祥子/吉川弘文館)、『図説 和菓子の歴史』(青木直己/筑摩書房)
初出『Tarzan』No.804・2021年2月10日発売
縄文・弥生時代
稲作前に日本で食べられていた糖質。
日本人は、摂取エネルギーの約40%を糖質主体の穀類から摂っている。その主役は米だが、日本人が初めに口にした糖質はおそらく米ではない。話の始まりは、縄文時代。いまから約1万5000年ほど遡り、2400年ほど前まで1万年以上続いた。
縄文=狩猟採集の時代というイメージが強いけれど、昨今の研究ではすでに原始的な農耕が局地的に行われていたという説が有力になっている。縄文前期の鳥浜貝塚(福井県)では、中国大陸から渡来したと思われる小豆、エゴマ、緑豆、ヒョウタンなどの作物を栽培していた痕跡が見つかる。これらの作物からはいずれも糖質が採れる。
その縄文時代が終わりに近づくと、氷河期が終わって温暖化が進む。氷河が解け、海水面が上昇して、日本は四方を海で囲まれた現在のような島国となる。21世紀に入ると温暖化は諸悪の根源のようにディスられているが、縄文時代に進行した温暖化は落葉樹や照葉樹の豊かな森が生い茂る契機となった。
温暖化の恵みとして縄文人が手に入れたのが、栗、栃の実、クルミなどのナッツ(堅果類)。これらのナッツから貴重な糖質が得られるようになる。
「堅果類はそのままでは食べられません。何らかの方法でアク抜きをし、砕いてクッキーやパン状に加工してから食べていたようです。実際、遺構からは炭化した“縄文クッキー”も見つかっています」(梅花女子大学で食文化を研究する東四柳祥子教授)。
縄文時代の貝塚からはカツオ、サケ、牡蠣、アワビといった魚介類、シカや猪といった中型獣を食した痕跡も見つかる。だが、こうした獲物が毎日確実に得られるわけではないから、縄文人は摂取カロリーの約80%をナッツなどの植物性食品で賄っていたと考えられる。
また青森県の縄文集落跡「三内丸山遺跡」では、すでに栗の人工林を管理&保護していたことが指摘されている。
縄文晩期に稲作が伝わる。弥生期に本格化。
そして縄文の終わりには大陸から稲作が伝わり、日本人の食文化のみならず、社会経済をガラリと変えた。
米作りが本格化するのは、約2400年前に始まる弥生時代。日本は農耕社会へ変貌し、米や麦、雑穀などの糖質を主食に、狩猟・漁労・採集で得たものをおかずとする食生活の基礎ができる。
「弥生時代の遺跡から木製の匙が出土することから、米は雑炊や粥状で食べていたようです。稲作と同時に、淡水魚を米と塩で漬け込む発酵食品・なれずしの製法も伝わっています」
本質的には自然物採集社会だった縄文時代は、貧富の差が少ない平等かつ平和な社会だった。でも、米作が盛んになった弥生時代は豊かになった反面、身分格差が生じ、米などの余剰生産物を奪い合う争いが絶えなかったともされる。
古墳・奈良・平安時代
米の価値が高まり、農民は雑穀から糖質を摂取。
弥生時代は500年ほどで終わり、4世紀からは古墳時代がスタート。
この時代、仏教が伝来。殺生を禁じる仏教思想が広がり、675年には肉食禁止令が発布される。背景には、農繁忙期に獣肉を食べると農業が失敗するというジンクスもあったようだが、これは日本人のタンパク源が鳥獣の肉類から魚介類中心へとシフトするきっかけとなる。
また、醬油や味噌の原形となる発酵調味料・醬(ひしお)の製法も伝わった。米は糖質リッチで栄養価に優れるほか、貯蔵が容易なことなどもあり、数ある作物でも特別な地位を獲得する。
平城京(奈良)に都を移した8世紀の奈良時代から、米を主税とし、水田開発を推し進める経済システムが始動。以来、米の希少性は高まり、国造りの要ともなる。ただし、奈良期に米がたらふく喰えたのは貴族層だけ。農民たちは黍、粟、稗、小豆など雑穀から糖質を得ていた。
清少納言も食べた樹液のかき氷。
この頃、遣唐使により、唐菓子がもたらされる。唐菓子とは、米粉や小麦粉などをこねてさまざまな形に成形し、揚げたもの。『土佐日記』には唐菓子を扱う店がすでに描かれており、庶民の世界にも浸透しつつある様子も窺える。
唐菓子に甘みを付けるのは、砂糖ではなく、甘葛(あまづら)という植物の樹液から採れる甘味料。甘葛は縄文時代の貝塚からも見つかるので、日本最古の甘味料ともいえる。平安期の清少納言の『枕草子』には、「甘葛をかけたかき氷が上品」という記述もある。
一説には、砂糖を初めて日本にもたらしたのは、かの鑑真とされる。しかし、当時の砂糖はまだまだ希少品であり、貴族や高僧の薬として用いられており、庶民には高嶺の花だった。
平安時代には酒造りの技術も発達。
奈良から京都への遷都で開幕した平安時代は、8世紀末から約400年続く。その間に遣唐使が廃止され、唐文化を日本風にアレンジした国風文化が開花する。平安時代には、貴族たちの宴会用として「大饗料理」がブームとなる。
大饗料理は、大きなテーブルに向かい合って坐り、卓上に並べられた単品料理を共有する食事形式。各々に用意された箸と匙で料理を取り、醬、酒、塩、酢で自分好みに調味しながら食べた。テーブルには当然ご飯も並ぶが、それは私たちが知っているものとは異なる。
「ご飯は茶碗に高く盛り付ける高盛りで、その高さで歓待の気持ちを表しました。当時は玄米を甑(こしき)などで蒸した“強飯(こわいい)”が主流でしたから、きっと食べにくかったはずです」
甑とは、底に穴の開いた土器製や木製の深鉢状の道具。ルーツは弥生時代まで遡るとされる。
またこの時代には酒造りの技術も発達。すでにバラエティも出始める。丹波の栗、信濃の梨、河内の味噌、飛騨の餅、鎮西の米など各地に名産品も生まれ、貴族は地方の珍味も楽しんでいたようだ。
鎌倉・室町・安土桃山時代
一汁三菜という和食の基本が成立。
12〜14世紀、都が京都から鎌倉へ移り、武家政権に移行する鎌倉時代には、食文化にも少しずつ変化が起こる。質実剛健を重んじる武士は、玄米を主食に一汁一菜の簡素な食事を好んだ。
武士が支持した禅宗の影響により、動物性の食材を避ける精進料理も発達。和え物などで野菜をおいしく食べる工夫が広がるようになる。身分を重んじる武家社会の宴会では、同じテーブルを大勢で囲む大饗料理を嫌い、個人用の銘々膳で食事をする「本膳料理」を採用するようになる。お膳の数で、身分の違いを表す仕組みだ。
大陸帰りの禅僧は、修行中の間食として「点心」を伝えた。これを機にうどんや饅頭など、小麦粉を用いる粉モン文化が広がる。
「禅僧たちは中国の“羊羹(羊のスープの意)”にヒントを得て、小豆や葛の粉などで工夫しました。初めは甘みのない精進料理でしたが、室町時代には“砂糖羊羹”という記述が見え、甘くするアレンジが見られるようになります」
再び都が京都へ戻る室町時代には、貴族と武家の食文化が融合。現代日本の食文化&糖質文化のプロトタイプが整う。本膳料理のルールに基づき、ご飯を左、汁を右に置くスタイルが確立。ご飯の炊き方も、水を加えて炊き上げる「姫飯(ひめいい)」が主流となる。
見逃せないのは、鎌倉・室町時代に大豆の生産量が増加したこと。これにより、舐める味噌から飲む味噌汁への移行が進み、ご飯+味噌汁という最強タッグが爆誕する。
南蛮人がもたらした新たな糖質源。
お次は安土桃山時代。近世の幕開けだ。
偉人・千利休が精神性を重んじる侘び茶を創造。茶事で供する軽い食事として「懐石料理」が興る。季節感と温度を重んじ、器との相性や盛り付けに工夫を凝らした懐石料理は、和食を洗練させた。
南蛮人(ヨーロッパ人)との交流が盛んになったのもこの時代。砂糖や卵を使ったカステラ、ボウロ、金平糖などが持ち込まれ、主に上流階級で享受された。また、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャといった新たな糖質源が渡来して日本に根付く端緒となった。
奈良時代以降、日本人の食事は米食中心。昔は一体どのくらい食べていたのか。戦国時代の資料では、侍は玄米と麦などを混ぜたものを1日最低6合食べていたとか。これで約3150キロカロリー。多すぎるように思えるが、腹が減っては戦ができない。戦場の運動量から逆算すると6合は最低ラインだろう。
「戦国期の籠城時には1人1日6合以上もの米を用意したとの記録もあります」
一方1日の食事回数も、鎌倉時代の頃より、3食化への兆しが見え始めるようになる。しかし農作業で忙しい時期などは、活動量に応じて5~6食の日もあったといわれている。
江戸時代
日本版ファストフード「一膳飯屋」が誕生。
17世紀から始まる江戸時代。政治経済の要衝の地となった江戸では、さまざまな糖質文化が花開く。
庶民向けの外食業が隆盛。一膳飯屋(定食店の走り)に加え、屋台の天ぷら、すし、そばなどがブームとなる。現代のオフィス街と変わらない顔ぶれ。糖質主体の日本版ファストフードだ。江戸には地方から職人が集まり、独身者が多かったのが、外食が栄えた理由という。
庶民を尻目に豪商が通う江戸の高級料理屋では「会席料理」が人気を集める。お酒を飲みつつ、一品ずつ料理を味わうスタイルで、現代の料亭料理の原形。読み方は同じだが、懐石料理ではご飯は初めに出るのに、会席料理では〆に出る。
白米食の広がりとともに、脚気が流行。
それまでご飯は玄米主体だったが、豊かになった江戸では、従来は身分の高い人しか手が出なかった白米食が広まる。白米では胚芽に多いビタミンB1が不足する。この頃は副菜よりむしろ米飯メインの食事でもあったため、B1欠乏に直結。それによって、脚気が流行したのである。江戸特有の病ということで、「江戸煩い(えどわずらい)」とも呼ばれた。
これまで砂糖は海外からの輸入に頼っていたが、江戸期にようやく砂糖の国内生産が始まる。幕府が製糖を奨励し、砂糖の製法書も編まれた。茶の湯の普及に伴い、砂糖を使う上菓子が発展する。白砂糖の使用を許された上菓子屋のなかには、幕府の御用菓子屋として活躍する者も出てきた。
一方、庶民もまた大福、桜餅、安倍川餅などの餅類、団子類、せんべい類、まんじゅう類、きんつばなどの甘い菓子を茶屋でカジュアルに頬張った。時代劇でもお馴染みのシーンだ。
明るい話ばかりではない。江戸期には、寒冷化などの異常気象による飢饉が東北地方などで頻発した。それを救ったのは、他でもない糖質系作物。救荒作物としてサツマイモ、ジャガイモ、ソバなどの栽培が奨励されたのである。
明治・大正時代
洋風の糖質料理が登場。家庭料理で砂糖を使うように。
文明開化に沸いた明治時代には、食文化にも何度目かの大改革が起こる。鉄道、電気、ガスといった西欧文明とともに、その料理も変容。料理書では、ライスカレー、コロッケ、マッシュポテト、アップルパイなどの憧れの洋風の糖質料理が紹介される。
肉食も見直され、明治期には多くの牛鍋屋が繁盛した。牛鍋とは、牛肉とネギを味噌や醬油で味付けしたもの。動物性のタンパク質と脂質の摂取を増やすいわゆる「食の欧米化」は、明治時代にスタートしたのである。富国強兵で欧米諸国と肩を並べるには、食事を変えて壮健な体質を手に入れることが先決と考えたのだ。
さらに19世紀末の日清戦争により、清国から譲渡された台湾は砂糖の一大供給地となり、砂糖は贅沢品から一般的な調味料になる。砂糖の大衆化で、家庭料理のレシピに砂糖を入れるものが登場する。和食は砂糖を多用する世界的にも珍しい料理だが、その発端は明治期だったのだ。
白米食がさらに広がり、脚気患者が増大。
明治期には白米食が全国的に広まり、脚気は「江戸煩い」から国民病となる。軍隊でも、脚気患者の減少が課題となり、食事をパン、野菜、タンパク質がメインの洋食に切り替えた海軍では改善の兆しが見えたのに対して、脚気の原因を細菌だと主張していた陸軍では大量の死者を出した。
明治政府は富国強兵の原資として生糸の輸出を進め、製糸工場には地方から多くの女工が集められた。彼女たちにとって白米食の給食は魅力的だったが、結果的に多くの女工もまた脚気に倒れる。
20世紀に白米偏重の食事を見直すまで、日本人は脚気に悩まされ続けた。しかし近代の幕開けとともに栄養学が伝わる。西洋から新しい知識が入り、炭水化物を意味する「含水炭素」という言葉が早くも明治期から使われ始める。
「栄養学は大正時代に発展します。やみくもに西洋食に走るのではなく、タンパク質の供給源として、肉や牛乳の価値が改めて注目されました。また学校での児童への牛乳の飲用指導も確認できます」
昭和時代〜現代
昭和初期は戦争により、砂糖が贅沢品に。
昭和初期は戦争の時代。太平洋戦争中に台湾からの砂糖供給ルートが途絶え、終戦で台湾を失い、砂糖は再び贅沢品となる。スーパーなどで自由に砂糖が買える今からすると考えられないが、1952年まで砂糖は配給制だったのだ。
戦後しばらくはチクロなどの人工甘味料の消費が増えたが、のちに安全面から使用禁止に。砂糖の供給と消費が拡大するのは、63年に砂糖の原料となる「粗糖」の輸入が自由化されてからである。
近年はダイエット志向の高まりもあり、甘味を避ける傾向が顕著に。砂糖の消費は73年をピークに右肩下がりとなり、現在は最盛時の70%前後に留まる。
1962年をピークに、米消費が減少。
高度経済成長で日本が豊かになると、「食の欧米化」が再燃する。ファストフードやファミレスが次々と上陸して米の消費量が減り、対照的に肉類や牛乳・乳製品などからの動物性のタンパク質と脂質の摂取が増える。
戦後1人当たりの米消費量がいちばん多かったのは62年。その頃は1人が1日にご飯茶碗5・4杯食べていたが、現在は2・4杯と半分以下である。欧米化などの嗜好の変化も関わるが、米消費量が減ったのは活動量の低下を反映したもの。日本人は世界でもっとも坐っている時間が長い。じっと坐っているばかりで運動不足だと、昔の農民や兵士のように大飯を喰らう必要はない。
「コロナ禍でスーパーへ買い物に出かけたら、米はあるのにパスタが売り切れで、米離れを改めて実感しました。ヨーロッパでは米は野菜の一種として扱われます。私たちも米の新たな調理・活用法を模索する時期に来ているのかもしれません」