「人目を気にする力」文・せきしろ|A Small Essay

ウェルビーイングな時間ってなんだろう。様々な人に、その人ならではの視点でエッセイを寄せてもらいます。

文・せきしろ 写真/編集部

文・せきしろ

たとえば洋服を買いに行ったとする。「良い服だなあ」とか「欲しいなあ」などと思った時、気になるのは価格である。ここで値札を見るわけであるが、闇雲に値札を引っ張り出したりひっくり返したりして見てはいけない。服を見つつ、自然に服を動かし、時には巧みに服の内側にある値札を首元に移動しながら価格を盗み見なければいけない。

たとえば雑貨店に入ったとする。客は私だけで店員と二人だけの空間になる。ところがそこは自分が勝手に思い描いていたような店ではなく、自分とは不釣り合いな小物が中心の店だったとする。この時、店をすぐに出てはいけない。商品を一通り見て、どこか名残惜しそうに看板を見るなどしてできるだけ興味あるふりをしなければいけない。

たとえばコンビニのコピー機を使っている人がいたら順番待ちをしてはいけない。逆に自分がコンビニのコピー機を使っている時に後ろに誰か並んだのなら、たとえコピーの途中でも全部終わった空気を出して譲り、店を出なければいけない。

きっとさっきからこの人は何を言っているのだと思われていることだろう。「しなければいけない」と書いてあることはどれもする必要のないことだからだ。

私は物心ついた頃から人目を気にしてきた。もしかしたら自分が人を観察するタイプであったから他の人もそうなんだと思い込んでいたからかもしれない。

とにかく私は人目が気になって仕方ないのだが、それを誰かに言うと「お前のことなど誰も見てないよ」と嘲笑されるので、その度「そうですよね」と返して終わることになる。そうしているうちに人目が気になることは一切口にしなくなったが、実はいつだって気にしているし、それは途切れることなく続いている。

洋服を買う時に堂々と値札を見ていたのなら「あの人、値札見ているよ」と思われているのではないかと考える。まったく興味ない態度で雑貨店を出たなら「私が仕入れた商品に興味なかったんだ」と少なからずダメージを与えてしまうのではないかと思ってしまう。コンビニのコピー機を使っている人の後ろに並ぶことによりプレッシャーを与えることになりそうなのでそ別のコンビニへ行ったり、自分の後ろに並ばれたら「この人長いな」と思われているのではないかと考えさっさと立ち去り、これまた別のコンビニへ行く。もしくはもうコピーをしないという選択肢すらある。

このどこか歪な行動の数々をある日「オリジナルマナー」という言葉で括ってみた。すると瞬時に楽になったのだ。ただ言い方を変えただけなのに不思議なもので、自分の行動は他人のためになっている気がした。かつ誰かに褒められた時の感情に似ていた。褒められることが少なかった人生がここにきてプラスに作用してきた。

たとえばチェーン店のカフェに行く。カウンターに4席あって、両端に座っている人がいて真ん中ふたつしか空いてない場合、どちらかの隣に座ると鬱陶しがられる可能性があり、逆に隣に座らないと「私の方は嫌なのかな」と思われそうなので、どちらにも座ってはいけない。

たとえば美容室で髪を切った後「こんな感じです」と鏡で見せられた場合、結局は「大丈夫です」と言うのだが、「今、確認しています」という表情をする時間を必ず挟まなければいけない。

たとえばファストフード店などで良さげな席が空いても、その席にいた人が店から出るまでそこには移動してはいけない。

たとえば喫茶店などでまだ店を出ようとしていないのに立ち上がって席を離れた時、店員にもう帰ると勘違いされて「ありがとうございました」と言われた場合は聞こえていないふりをしなければいけない。

暗証番号を見ないようにしている店員さんを見ないようにしなければいけない。

エレベーターの扉が開くとすぐ店舗の場合も慌ててはいけない。

私はなにかに迷ったらかっこいいと思う方を選ぶことにしている。オリジナルマナーを実行することは、誰にも言わずに誰も知らないミッションを遂行しているかっこよさがあり、自分の美学にも反してない。

ちなみに人目を気にして生きてきて最も良かったことは「あの人きっと色々と気にしているんだろうな」「気遣ってくれているな」と気づけるようになったことである。

Profile

せきしろ/1970年、北海道生まれ。作家。俳人。ASH&D所属。結社『断片』主宰。SF掌編集『宇宙の果てには売店がある』、自由律俳句集『そんな言葉があることを忘れていた』発売中。BS『又吉・せきしろのなにもしない散歩』出演中。『武田砂鉄ラジオマガジン』月曜レギュラー。