あの“伝説の試合”から紐解く、プロレスと格闘技の境界線。

「プロレス最強」を信じ、〈PRIDE〉のリングで400戦無敗のヒクソン・グレイシー(総合格闘家)と対峙したプロレスラー・髙田延彦。1997年、この日の出来事がもたらした歴史的意義とは。当時を知る2人の識者の見解を交えながら、あらためて振り返ってみたい。

編集・取材・文/徳原 海 写真/アフロ

初出『Tarzan』No.899・2025年3月19日発売

教えてくれた人

井上崇宏(いのうえ・たかひろ)/1972年生まれ。2006年に編集プロダクション〈ペールワンズ〉を設立。プロレス、格闘技雑誌『KAMINOGE』の編集長を務めながら、書籍の企画編集、オリジナルアパレルの販売やカフェ〈HOLY SHIT〉のディレクションなども手がけている。

和田良覚(わだ・りょうがく)/1963年生まれ。スポーツクラブのインストラクターを経て91年の〈UFWインターナショナル〉旗揚げに参画。以来さまざまな格闘技団体のレフェリーを務めながら、フィジカルトレーナーとしても多くの格闘家から信頼を集めている。

レジェンドたちの血と汗と涙が今を作り上げた。

—プロレスは格闘技か否か—
そんな談義で夜を明かしたことがある人も多いはず。永遠に答えが出ないテーマだが、確実に言えるのは現代の格闘技発展に間違いなくプロレスが深く絡んでいること。
—藤原喜明、佐山聡、前田日明、髙田延彦、山崎一夫—
結論から言えば、この人たちなくして今の総合格闘技はない。そう断言できる理由を1984年、1993年、1997年という3つのターニングポイントとともにひもとく。

84年の〈UWF〉誕生、そして分裂。

「大もとは“藤原教室”。(プロレスの神様)カール・ゴッチさんから関節技を学んだ藤原さんによる〈新日本プロレス〉道場でのガチンコスパーリング。そこに若かりし佐山さん、前田さん、髙田さん、山崎さんが加わって。100%、そこから始まったと言えます」

とは、かつてレフェリーとして髙田とともにプロレス団体〈UWFインターナショナル(以下、Uインター)〉旗揚げに関わった和田良覚さん。

氏の話を裏付ける年が、まず84年だ。生粋のプロレスファンで格闘技雑誌『KAMINOGE』の編集長を務める井上崇宏さんはこう語る。

「それこそ70年代や80年代は多くの人が、プロレスの“ガチンコ”に対して半信半疑。ただ僕らファンにとってプロレスはガチの真剣勝負で、モハメド・アリとも闘ったアントニオ猪木こそが最強だと。その特異な世界に魅了されたのが佐山さん。最強になりたくて新日に入り、プロ空手家マーク・コステロにキックルールで挑戦し、猪木さんの“格闘家第1号にする”という口約束が果たされずタイガーマスクになった。その佐山さんがプロレスを引退して作ったのが総合格闘技団体・シューティング、後の〈修斗〉。オープンフィンガーグローブを取り入れたのも佐山さんです」

そしてシューティング誕生の2か月後に生まれたのが伝説のプロレス団体〈UWF〉。〈新日本プロレス〉の内紛(別事業の莫大な負債に伴う反猪木派のクーデター未遂)の影響を受け、前田らを中心に設立。後に藤原、佐山、髙田、山崎が加入した。

打撃あり、関節技のフィニッシュありといった革新的なプロレスで大人気を博すも1年半で消滅。88年に再始動した〈第2次UWF〉を経て、3団体に分裂した。

「髙田さんの〈Uインター〉、前田さんの〈リングス〉、藤原さんの〈藤原組〉。僕はスポーツコネクションというジムのトレーナーだった頃に前田さん、髙田さんと出会い、〈UWF〉が空中分解した後に髙田さんから“新しい団体を作るからレフェリーをやってくれないか”と。選手の人生を左右する仕事ができるのかと不安でしたが、あの人に頼まれたらやるしかない。その後はレスラーと同じ練習をこなす地獄の日々(笑)。本当にきつくて毎日やめたいと思っていましたが、髙田さんとの男の約束なので。その後、藤原組の船木ちゃん(船木誠勝)とみのるちゃん(鈴木みのる)が総合格闘技団体〈パンクラス〉を立ち上げるんですね」

“真剣勝負元年”の93年。

1993年を、井上さんは“真剣勝負元年”と呼ぶ。

「〈パンクラス〉が完全実力主義を掲げ、“秒殺”という言葉を生んだその年、実は総合格闘技戦〈UFC〉の第1回大会も行われて。柔術やグレイシー一族なんて誰も知らないなか、何でもありの異種格闘技戦をホイス・グレイシーが制し、偶然ですが〈K—1〉も93年に始まった。その時点ではプロレスファンとして“船木と鈴木? いやいや前田と髙田のほうが格上でしょ”という思いがありましたが、97年のあの試合が決定打になりました」

そして97年、総合格闘技イベント〈PRIDE〉が誕生。「髙田延彦×ヒクソン・グレイシー」の一戦に繋がる。伏線として94年にも行く末を暗示する出来事があった。

「髙田さんたちがグレイシーを倒そうと考え、〈Uインター〉を代表して英語ができる安ちゃん(安生洋二)が、ロスのグレイシー道場に直接話をしに行ったんです。が、向こうに道場破りと受け取られ、ボコボコにされてしまう」(和田)

「安生さんの顔面血だらけの写真が専門誌の表紙になったわけですから、もう特大のインパクト。〈Uインター〉はあれで観客動員がガクンと落ちて消滅に向かいましたし、髙田さんもヒクソンとやるしか道はなくなった」(井上)

97年10月。格闘技界の新時代へ。

97年10月11日、東京ドームでの〈PRIDE・1〉。1R4分47秒、何もできずに腕ひしぎ十字固めで一本負けする髙田の姿はプロレス最強の終焉を象徴し、格闘技界は新時代へと急加速する。

「ヒクソンは達人のような強さ。ただ“400戦無敗”のコピーや“自分より10倍強い”というホイスの言葉でイメージが過度に大きくなり、髙田さんがナーバスになって本来の強さを出せなかった側面はありますよね」(和田)

「その後すぐに桜庭和志が〈UFC〉で柔術黒帯のマーカス・コナンに一本勝ちして“プロレスラーは強いんです”と。そしてホイス・グレイシーにも勝つという。アントニオ猪木の影響を受けた佐山聡が修斗を作り、前田日明、髙田延彦がいて、桜庭和志が出てきた。つまり、彼らに“最強幻想”をもたらした猪木さんが源流でもあるんですよね。その文脈を知らずに格闘技を見始めた人には何のこっちゃでしょうけど(笑)」(井上)

「髙田さんなんて、今また柔術でヒクソンに弟子入りしましたから。潔くてカッコイイ。〈リングス〉でヒョードルやノゲイラを最初に日本に連れてきた前田さんもすごい。いつかもう一度、藤原さん、佐山さん、前田さん、髙田さん、山崎さんがリング上で一堂に会して功績を称えられてほしい。あの人たちの血と汗と涙が今を作ったわけですから」(和田)

曖昧だった“プロレスと格闘技の境界”をはっきり示した髙田×ヒクソン戦。一方で愚直に最強を追い求めたプロレスラーたちのDNAがその境界線を突き破ったのも事実。格闘技はあまりに奥深い。

プロレスと格闘技の歴史。
1972

1月 アントニオ猪木が〈新日本プロレス〉設立。

1976

6月 日本武道館で異種格闘技戦『アントニオ猪木vsモハメド・アリ』が行われ、引き分け。

1980

2月 アントニオ猪木と空手家ウィリー・ウィリアムズによる異種格闘技戦が引き分けに終わる。

1981

4月 佐山聡扮するタイガーマスクがデビュー。一大ムーブメントを巻き起こす。

1983

8月 タイガーマスクが引退を表明。

1984

1月 佐山が〈タイガージム〉を開設し、新格闘技〈シューティング(修斗)〉を開始。

3月 第1次〈UWF〉発足。同4月11日の旗揚げ戦で前田日明がメインを務める。

6月 喜明と髙田延彦(当時・信彦)がUWFに加入。

7月 佐山がザ・タイガーとしてUWFで現役復帰。山崎一夫も加入。

1985

10月 佐山がUWF脱退を表明。

11月 UWFの事務所が閉鎖。12月に新日本プロレスとの業務提携を発表。

1987

11月 新日本プロレスの6人タッグマッチで前田が長州力の顔面を蹴り、重傷を負わせ無期限出場停止。

1988

4月 新日本プロレスを解雇された前田が髙田、山崎、安生洋二、宮戸優光らとともに〈第2次UWF〉を設立。

1989

4月 船木誠勝と鈴木みのる(当時・実)がUWFへ移籍。藤原も復帰。5月には田村潔司がデビュー。

1990

1月 藤原、船木、鈴木らが参加する〈新UWF藤原組〉が設立。

2月 髙田、山崎、安生、宮戸らによって〈UWFインターナショナル〉(以下、Uインター)が発足。

3月 前田が〈リングス〉の設立を発表。これにより第2次UWFが3団体に分裂したことになる。

1992

5月 リングス有明コロシアム大会にピーター・アーツが出場。キックルールでKO勝ち。

1993

4月 正道会館・石井和義館長によって〈K—1〉が創設。

5月 船木、鈴木らが〈パンクラス〉をスタート。

11月 米デンバーで第1回『UFC』が開催。ホイス・グレイシーが優勝。

1994

7月 『バーリ・トゥード・ジャパン・オープン』でヒクソン・グレイシーが優勝。翌年も連覇。

12月 米ロサンゼルスのグレイシー道場で安生がヒクソンに絞め落とされる。

1995

10月 新日本プロレス東京ドーム大会でUインターとの対抗戦。武藤敬司が髙田を4の字固めで下す。

1996

12月Uインターの最終興行が後楽園ホールで行われる。

1997

10月 〈PRIDE〉誕生。第1回大会が東京ドームで開催され、髙田がヒクソンに腕ひしぎ十字固めで敗れる。

12月 UFCが日本初開催。Uインターの桜庭和志がヘビー級トーナメント優勝。

1999

2月 ングス横浜アリーナ大会で前田が引退。レスリング五輪3連覇アレキサンダー・カレリンに判定負け。

2000

5月『PRIDE GRANDPRIX 2000』にて、桜庭が90分の死闘の末ホイス・グレイシーにTKO勝ち。

2002

11月 リングス活動休止。PRIDE・23で髙田が引退。