「いまだに信じられないですけど、走るって、楽しいんですよね」 アートディレクター・阿部洋介さんとトレイルランニング|Our Friends
アートディレクターの阿部洋介さんは、走り出すまで、ほとんど運動未経験だったという。わずか2年弱でマラソンを3時間半で走り、70kmの山岳レースに参戦するまでに走力を伸ばした。何より先入観もしがらみもなく、走ることの根源的な楽しさを謳歌している。
text: Toshiya Muraoka photo, movie: Tomohiro Mazawa

Profile
阿部洋介(あべ・ようすけ)/1973年東京生まれ。デザイン事務所「tha ltd.」に参加後、2017年に独立し、small inc.を設立。〈無印良品〉、〈日清食品〉、〈山と道〉など、企業webサイトや映像を中心にアートディレクション・デザインを手がける。カンヌ国際広告賞金賞、東京インタラクティブアワード金賞など受賞多数。


鎌倉市由比ヶ浜を眺める、阿部さんの仕事場。白い空間にディーター・ラムスが手がけた〈ブラウン〉のオーディオが置かれている。変わり続ける周囲の空気と、端正だが柔らかい室内とのギャップに阿部さんらしさを見る。

ウェブサイトのデザインだけでなく、場合によっては映像の編集まで自身で行ってしまう。その方が早くて楽しいから。仕事にもあまりルールは設けない。大切にしているのは「きちんと人の話を聞くこと」という。
海沿いの街で見つけた、ちょうどいい遊び。
阿部さんは、突然、走り始めた。夜型のために苦手だった早朝の撮影が続き、せっかくならペースを保って翌日も早起きをしてみようと目覚ましをかける。朝5時に起き、自分でも信じられなかったが、鎌倉の海沿いで多く見かける人たちのように走ってみようと思い立った。
「本当に見よう見まねで走ってみたけれど、全然走れなくて、帰りはトボトボ歩いて帰ってきました。これ、続けてみたらどうなるんだろうという実験精神ですかね。少しずつ気持ち良くなるのかどうか。僕は、それまできちんと運動をしたことがなかったから」
登山以外には体を動かす習慣がなかったからか、効果はすぐに現れて、走るほどに距離が伸びていく。走れば走るほど、走ることができる。「どうやらデータを測るらしい」と記録をつけ始めると、すべての数字が右肩上がりに伸びていく。
「辛いだけだと思っていたものが、もっと走りたいと思うようになるなんて、いまだに信じられないですけど、走るって、楽しいんですよね」
阿部さんのその言葉からは、自分の暮らしにちょうどいい遊びを見つけた喜びが感じられた。
阿部さんの個人事務所は、鎌倉市由比ヶ浜の目の前にある。PCに向かうと、左手に水平線。初めて走った時に目的地とした稲村ヶ崎まで見晴らしている。湿度の高い夏場は、空との境界線がぼんやりと霞んでいたが、冬場には観光客も減り、海の透明度が増す。四季の変化、いや日々の変化は、自然が近いほど明確に感じられる。場所柄、一時期はサーフィンもしていたが、人と競わなければ波に乗れず、そのムードが苦手で次第に海に入らなくなってしまった。
阿部さんはwebを主なフィールドにクライアントワークをしている。〈無印良品〉のプロモーションを手掛けるようになって20年近くが経ち、ほかにも〈日清食品〉のwebサイトなど、大企業の仕事も一度始まると長く続いていくと言うが、規模の大小はあまり関係ない。現在、もっとも深く関わっているのは、バックパックのガレージメーカーとして鎌倉でスタートした〈山と道〉だ。およそ10年前からwebサイトのディレクションを行うようになり、今では毎週定例会議に出席して、会社全体のクリエイティブディレクションをしている。
「〈山と道〉の夏目(彰)さんから、最初にウルトラライトハイキングを体験してほしいと言われて、山に行くようになったんですね。泊まりでも荷物が3kgとかで、MacBookより軽い。幸い僕はどこでも寝られるタイプだったので、山の楽しさに気づいて、一人でも行くようになりましたね。新しいギアを試すのも好きだし、ちょっと足りなかったら自分で作ってみようという文化も好きだし、だから〈山と道〉の仕事は自分に合っていたのかもしれません」
シーズンごとの撮影は山で行う。一人でも山に行くようになったとは言え、重い機材を背負ったカメラマンやスタッフたちにも敵わず、息を切らせながら最後尾をついていくことが多かった。体重も少し増えてしまい、運動不足で情けない気持ちが、走り出す後押しをしたのかもしれない。


海から一転して山に入れば、ほとんど人に会うことはない。山に囲まれた鎌倉にはいくつものトレイル・コースがあり、それらを繋いで走ることも可能。阿部さんは、トレイルを走っていると予定よりも長く走りたくなって、しばしばコースを変更するという。


交流の深い〈山と道〉のウェアに、〈NNormal〉のシューズ。これまでも登山をしながら製品やギアを試していたが、トレランを始めてさらに実感を強めることになった。

カラダのOSがアップデートされていく。
走り出して半年で、阿部さんはハーフマラソンに出場する。タイムを細かく区切ってペーサーが出走するレースで、たまたま目についたキロ5分10秒の後をついていった。ワラーチを履いたペーサーがかっこいいなと思いながら追いかけていたら無事にゴールに到着。続いて初心者でも走れると聞いた戸隠マウンテントレイルで20kmの部の部を完走。そして走り始めてからわずか1年強で日本山岳耐久レース・ハセツネCup、70kmに出場した。
「フルマラソンも走ったことがなかったんですが、歩いてもいいんだよなと思ってエントリーして。夜中にも走るから、ヘッドライトで走る練習をしたり。霧が出るから、夜のヘッテンは拡散して見えないから、腰にもつけた方がいいとアドバイスをもらったんですね。そんな大げさなと思っていたら、本当に霧が濃くて、ヘッテンだと反射して世界が真っ白で、何も見えないんですよ。ウェストにつけていると足元に近いからよく見える。こういう環境でしかわからない様々なことがあるんだなと、すごく楽しかったです」
ほとんど運動未経験でも、走り始めれば、たった1年でハセツネを完走できるものだろうか。レース前には月算300km近く走るようになった阿部さんは、その後もフルマラソンを3時間40分、さらにもう一つ3時間33分で走るなど、順調にランナーとしての階段を登っていく。
「カラダのOSがアップデートされた感覚はあって、今までまったく運動していなかっただけに、その変化がすごく感じられたんですよね。すぐに痩せたし、食欲が出て、食べても太らない。前からよく寝ていましたけど、さらに眠れるようになりました。なんの義務感もなく、ただ走りたいから走っているだけなのに」
以前は息を切らせていた山での撮影も体が楽になり、走りたくなったら走るまでになった。ただし、人と競うことは自分にとっては楽しさの本質ではないと気づいてからは、レースへの出場はある種の確認のようなもので、「たまにでいいかな」と思っている。向上し続けるために頑張るよりもむしろ「この楽しさを持続させるためには、どのペースで走ればいいのか」を考えるようになった。
「頼まれてもいないのに、辛くて面倒くさいことをどうして自分からやるんだろう? って、思っていたんですね。ランナーは気持ちが良いと言うけれど、本当は苦しいんだろうな、と。でも今は『こういうことなんだ!』って、体でわかりました。かつての僕を知っている人たちは、今でも『どうしたの?』と思っているだろうけど、この楽しさは、言葉で伝えても届かないんですよね。自分もそうだったから。すぐ近くにこんなに変わった人間がいるのに、奥さんにもまったく響いてない(笑)。自分で走らなければわからないから、面白いんだと思う」

真夏の由比ヶ浜。この日は台風が近づいて、気持ちの良い南風が吹いていた。阿部さんは、夏にはあまり砂浜へ降りることはないが、すぐに触れられる海がある恩恵は感じていると言う。


ルールは、なし。自由な状況だけ設定する。
走り始めた当初は、いつも手放せないiPhoneから自由になる喜びがあったが、今ではポッドキャストを聴く時間としても活用している。「こうしなければならない」というルールは一切なく、その日の気分に合わせればいい。海沿いのロードでは観光客も多いが、一定のペースで走るうちにジワジワと体が楽になっていく感覚が好き。一方で鎌倉のトレイルに入れば、ほとんど人に会わないために瞑想のような気持ちになる。どちらにもそれぞれの良さがある。強いて方針として挙げるならば、できるだけ自分の気持ちに従えるような状況にしておくこと。
「走り終わってすぐに打ち合わせがある、みたいな時には走りたくないかもしれません。間に合うように準備するのが嫌だから。特に山に入ると、ついもっと走りたくなってしまうから、できるだけ余裕を持つようにしてますね。まあ、元から気ままに仕事ができる状態だったから、朝型になったくらいで大きな変化はないけれど、以前よりイライラすることは減ったかもしれない。走っている時間にも、なんだかんだ仕事のことを考えてしまうんですね。以前は急いで返信しなければと焦っていたけれど、今では一拍置いて、どうやって返信しようと考えながら走っています。走りながら考えることで、余裕を持てるようになった気がしますね。ただ、頭の中で文面まで考えているから、返信した気になって、実際にメールを送るのを忘れてしまうことがよくあるけれど(笑)」
かつては、村上春樹や松浦弥太郎が書いた走ることにまつわる本を読んでも、「意味がわからない」と思っていたのに、今ではすっかり「そういうおじさんになった」と阿部さんは笑う。海沿いを走る典型的なおじさんランナー。そう見られても、まったく気にしない。誰に強制されたわけでも、誰かのために始めたわけでもないから。ただ、楽しい遊びを見つけたから、夢中になっているだけ。走ることは、遊ぶこと。とてもシンプルながら、これほどの自由は、そう多くない。



