睡眠障害の新たな希望。世界中で研究が進むオレキシンについて。
睡眠に関する凄い発見があった……ことをなんとなく知っていても、一体どんな発見なのか説明できる人は少ないはず。いまだ謎が多い睡眠に深く関与する、オレキシンとは? その第一人者に、「今までとこれから」を聞いてみた。
取材・文/石飛カノ イラストレーション/OTANIJUN
初出『Tarzan』No.921・2026年3月12日発売

教えてくれた人
柳沢正史(やなぎさわ・まさし)/筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長・教授。生理活性物質オレキシンの発見と過眠症や不眠症の創薬への貢献によりこの2022年9月、国際的学術賞『ブレークスルー賞』を受賞。
オレキシンって一体なんだ?
オレキシンとは睡眠に関わる脳内の神経伝達物質のこと。1998年に当時テキサス大学で研究室を主宰していた柳沢正史教授のグループが発見した物質で、睡眠・覚醒の謎を解き明かす大きな一歩として世界の注目を浴びた。
「発見当時、オレキシンの役割は分かっていませんでした。というのは、生理機能が分かっていない鍵穴分子(受容体)に着目し、そこにくっつく鍵分子に当たるものを我々が新たに見つけたにすぎなかったからです」(筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長・教授の柳沢正史さん)
新たな物質を発見したはいいものの、役割は不明。ここからその正体を解明する作業が始まった。
「オレキシンを作る神経細胞は脳の視床下部。当時、この領域は食欲の中枢と考えられていました。そこでまず簡単な実験でマウスの脳内にオレキシンを注射したところ食欲が増し、絶食状態にするとオレキシンの産生量が増えることが分かりました」
正体は食欲を司る物質なのか?ならばと発見当初はギリシャ語で“食欲”を表す“オレキシス”に因み、新物質はオレキシンと命名された。
実験は次の段階に移る。オレキシンの遺伝子をノックアウトしたマウスを作り出し、何が起こるかを徹底的に調べることにしたのだ。
「オレキシンがないマウスですから痩せたり食欲が減ることを期待しました。ところが何も起こらなかったんです。オレキシンがなくても体重も食べる量も変わらないし、脂っこいエサを与えれば太る。これには頭を抱えました」
マウスが夜間に突如脱力状態に。
せっかく新たな脳内物質を見つけたのに、あってもなくても食欲は変わらない? 一体全体なぜ? そこで思い当たったのが、マウスが夜行性動物であるということ。
「昼間ではなく夜のマウスの食行動を観察すべきだと思い立ちました。そこで、夜間の行動を赤外線ビデオで撮影したところ興味深いことが見つかったんです」
夜間のオレキシンノックアウトマウスは、しばらくは毛づくろい行動などをして元気に活動している。と思いきや、突然カラダの動きが止まり、四つ足で立っていたはずがべったりお腹を床につけて完全に動かなくなってしまったという。
「これは明らかに異常な状態。筋電図を見ると、筋収縮の波形も消失していました。つまり、脱力状態ということです。脳波を見るとレム睡眠のパターンで、“レム脱力”という金縛りのような状態に陥っていたんです」
通常の睡眠では入眠時にまずノンレム睡眠が表れ、その後、レム睡眠に移行する。ところが当該のマウスは覚醒状態からいきなりレム睡眠に突入したと考えられる。そう、実はこの状況は過眠症のひとつである“ナルコレプシー”にそっくりの状況なのだという。
「ナルコレプシーの患者さんは一対一で話している最中や試験問題を解いている最中など、ありえないタイミングで眠ってしまいます。このマウスも同様に普通ではない状況で瞬間的に寝てしまう。どちらもオレキシン欠乏によるナルコレプシーという病態です」
その後、ナルコレプシー患者の脳ではオレキシンを作る神経細胞が脱落し、オレキシンが欠乏していることが発見された。オレキシンの正体は睡眠に深く関わる神経伝達物質だったというわけだ。
これを機に世界中でオレキシンの研究が進められるようになった。現在分かっている睡眠とオレキシンの関係は次の通り。
脳中枢の上流で覚醒状態を維持。
脳内には睡眠を維持する“睡眠中枢”と覚醒を維持する“覚醒中枢”が存在する。ふたつの中枢はいわばシーソーの関係で、どちらかが活性化されればもうひとつの中枢の働きは弱まる。
「オレキシンの機能は覚醒を促進し、正しく維持するということです。オレキシンは覚醒中枢を構成している神経細胞のさらに上流にあって覚醒状態を安定化させているというイメージです。健康な場合、覚醒している人はずっと覚醒しているし、睡眠時間も長くキープすることができます。これはシーソーのスイッチが安定している状態。でも、オレキシンが欠乏するとスイッチが極めて不安定になって突然眠くなるという現象が起こるわけです」
ちなみに、オレキシンの生成や分泌を促す因子は以下の3つ。体内時計と栄養、そして情動だ。
「オレキシンが最も多く作られるのは午後遅くから宵の口くらいの間です。朝から覚醒して脳の睡眠欲求が溜まっているタイミングで分泌されます。これを管理しているのが体内時計。栄養に関しては血糖値が下がった空腹状態ではオレキシンが活性化して眠りにつきにくくなります。情動は、いわゆる眠気が吹き飛ぶようなメンタリティに陥ると、やはりオレキシンが出ることが分かっています」
本当は疲れているはずの夕方には目が冴えるし、空きっ腹では寝つきが悪いし、キャンプ中に熊に襲われるリスクにビビっているときには到底眠れない。納得。
不眠症治療薬とさらなる展開。
現在、オレキシン受容体に作用して覚醒を安定化させる医薬の開発が、ナルコレプシーの病因治療を目指して最終段階にある。でもその前に。すでにオレキシンが実装化されているのが不眠症治療薬という分野。
オレキシンが覚醒を促すのなら、その働きを阻害すれば逆に眠りにつきやすくなるはず。というわけで2014年、オレキシンの受容体結合をブロックする“オレキシン受容体拮抗薬”が実用化された。現在日本で4剤が認可されていて、いずれも作用機序はオレキシン受容体の機能を抑えて自然な眠りを促すというものだ。
「この薬のいいところは既存の睡眠薬のようにレム睡眠を抑制しないことです。記憶の定着などに関わるレム睡眠を強く抑制することはよくないことなんですが、オレキシン受容体拮抗薬はむしろレム睡眠を増やします。薬剤耐性や依存性も少ないことが特徴です」
オレキシン受容体拮抗薬の特徴や期待できるメリットは下に示した通り。不眠症で治療薬を長年使用し続けている人にとっては実にありがたい話。
なかでも依存性が低いということには理由がある。実は薬物やアルコールなどの依存に陥るメカニズムにオレキシンそのものが作用しているという話。オレキシンの働きを阻害すれば依存状態に陥りにくいということ。
「不眠症治療薬とはちょっと種類の違う薬を、将来的に依存症の治療に応用しようという研究も出てきています」
オレキシンという物質にはまだまだ未知のポテンシャルが秘められていそうだ。
オレキシン拮抗薬に期待できる特徴。
- レム睡眠を増加させる
- より自然な睡眠を促す
- 運動機能失調を来しにくい
- アルコールとの相乗効果が少ない
- 認知機能低下や譫妄を生じにくい
- 耐性、依存性、リバウンドが少ない
- 「ノックアウト感」「酩酊感」が少ない
現在、不眠治療の現場でオレキシン受容体拮抗薬が主流になっているのは上のような安全性の高さが理由。服用の卒業もしやすい。



