「らしく生きること」文・枝 優花|A Small Essay

ウェルビーイングな時間ってなんだろう。様々な人に、その人ならではの視点でエッセイを寄せてもらいます。

text: Yuka Eda photo: Tarzan

文・枝 優花

この仕事をしておいてなんですが、年々流行に疎くなっている。人から教わる流行りのダンスや映像、言葉や店に対して「何それ!」と言うたびに皆から「普段どこで息してるの?」と。確かに。同じ地球に生きているはずなのに何も知らない。いや、一応情報として脳に入れてはいます。そりゃね、お仕事的に知っておかないと成立しない感度ってもんがあるからさ。でも、どうにも自分の生活に馴染まない。そう気づいてから、意識的に流行を無視するようになった。

代わりに「いま、私が欲するもの」に誠実に向き合うようになった。私のウェルビーイングはそんな感じだ。え、そんなこと?って感じでしょうが、これが意外と難しい。いま食べたいもの、見たいもの、読みたいもの、いま自分がしたいことに限りなくズレなく寄り添うってのは、大人になればなるほどできなくなってる。

周りに合わせること、先のことを考えて動く、とりあえず、などいまの自分を置き去りにするプロは大人に多い。社会で生きていくってそういうことですから。でも、心身の健康はそこにはない。そのことに気づいたのは20代後半、働きすぎて心がポッキリ折れたときだった。自分が空洞化して何も感じなくなった。そのことが悲しくて涙が出た。自分がわからない。私は誰なの?と。

私の生活は地味だ。朝起きたら珈琲を淹れてゴミ捨てをしてサプリを飲んで。植物に水をやって洗濯機のスイッチを押す。午前中に原稿を仕上げて、メールも返して。午後は映画を観に行く。帰りに本屋とスーパーに寄って。料理が好きだからカートを押しながら作りたいものを考えながら食材を吟味。帰ってきたら料理をして。煮込んでいる間に仕事を終わらせる。そして煮込み終わった頃には仕事もひと段落。ご飯を食べて、友達と少しラインのやり取りをして、最近は編み物をする。そしてお風呂に入って24時には寝る。テレビはほとんど観ないし、SNSは移動中に少し開く程度。レビューサイトも見ない。実態がわからないものを信じたくない。それよりも自分といる時間を大事にしている。己の足で、目で、手に取って、考えて。実際に触れること、これは生きている人間にしかできない特権。死んでしまったらできないでしょう。

本当の意味で人生が豊かな人の言葉には重みがある。身につけているもの、髪型、メイク、全てがフィットしている。存在が軽やかで気持ちがいい。健やか。不安も執着もない。これが「らしさ」ってやつ。別にね、ヘルシーな生活をしてる人が豊かなのかって言ったら、そんなことはないと思うんですよ。不摂生は良くないからとすごく我慢して頑張ってる人って、辛そうに見えることあるし。だってほら、たまにケンタッキーとかマックのポテト食べたくなるじゃない。急に散財したくなったり、浴びるように酒を飲みたくなったり。そんな自分に「やっちゃいな!」って許可を出してあげる。自分とのコミュニケーションが誠実な人がヘルシーなんじゃないかって、最近は思って。自分に優しくすると、世界にも優しくなって、いろんなこと適度にどうでも良くなる。だって私はここにいるもん、って。

私はものを作る仕事をしているから「らしさ」ってのが結構大事だったり。だからこそあの虚無の自分は恐ろしかった。外側に自分が飲まれていくソレ。そんな感じで今は外をある程度遮断して、内側を広げている。まあ簡単に言えば好きに生きている。どうです? みなさん、好きに生きてますか? 案外、自分以外の何かに支配されてしまってないですか? たまには自分の声、聞いてみてくださいな。そしたらしょーもない自分が出てきて笑えますから。全然ちゃんとしてない、しっかりできない、だらしない、でもそれでいい。手を抜いて、軽やかに、自分らしく生きていけたら、きっといい。

Profile

枝 優花/映画監督・脚本・写真家。1994年生まれ。群馬県出身。2017年、初の長編作品『少女邂逅』が国内外で反響を呼び、ロングランヒット。MOOSICLAB2017で観客賞を受賞。香港国際映画祭、上海国際映画祭正式招待、バルセロナアジア映画祭にて最優秀監督賞を受賞。2019年日本映画批評家大賞の新人監督賞受賞。数々の映画やドラマで監督・脚本を手がけるほか、写真家としても、様々なアーティスト写真や広告を担当している。