岡澤セオン(ボクシング)「ボクシングをずっと好きでいたいと思う」
世界選手権では日本人初の優勝を果たした。が、2度のオリンピックでは苦しい敗退。そして今、彼は最後の戦いに挑んでいるのだ。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2026年8月27日発売〉より全文掲載)
text: Ichiro Suzuki photo: Yusuke Nakanishi
『Tarzan』No.932 on sale August 27, 2026.

Profile
岡澤セオン(おかざわ・せおん)/1995年生まれ。179cm、70kg。父はガーナ人、母は日本人。本名は岡澤セオンレッツ クインシー メンサ。2018年、全日本選手権優勝。19年、アジア選手権ウェルター級2位となり、同年、全日本2連覇。21年、東京オリンピックに出場。同年、世界選手権で優勝。24年、パリ・オリンピックに出場。25年、世界選手権2位。24年より横浜市にある大橋ジムに拠点を置く。INSPA所属。
自分勝手にオレはアマチュアの最後の砦だと思っている。
岡澤セオンはプロのアマチュアボクサーである。プロのアマ?と訝しがる人もいよう。その理由は後ほど。彼は2021年の11月にボクシング競技(アマ)の世界選手権のウェルター級で優勝した。この大会での日本人の金メダルは初の快挙だ。しかし厳しい現実に愕然とする。

「もっと反響が欲しかったというのがすごくありますね。この年の7月に東京オリンピックがあって、2回戦で負けたのですが、そのときから世界選手権は取らないといけないと思ってがんばっていたんです。でも、負けたオリンピックのときよりも、話題にならなかった。日本ではボクシング競技自体があんまり認知されていないから、それを変えたいとずっと思っていたのですが」
岡澤はボクシング競技にこだわっている。日本ではプロが上と見られがちだが、似て非なる競技だと考えるほうが正しいだろう。なぜなら、プロは究極、相手を倒すことを目指す。が、競技ではいかに手数を出してポイントを稼ぐかが大きなウェイトを占める。だから、実力はまったく比較できない。
岡澤は今、井上尚弥が所属する大橋ジムに拠点を置き、プロの日本ランカーとスパーリングを行ったりしているのだ。ただ、日本の現状は厳しい。井上の試合ならば大きな会場でも観客が押し寄せるが、岡澤の試合は見られる機会すら少ない。プロ転向は考えなかったのか、と聞くと笑顔でこう答えた。

「それは、羨ましいですよ。オレだってプロに行ったら活躍できる、と考えている自分もいます。でも、それと同じぐらいに、自分勝手にオレはアマチュアの最後の砦だって思っているんです。プロに行ったらアイツも転向かってなるし。だから、ずっと競技を好きでいたい、ここに残りたいっていうのがあるんですよ」
岡澤にとって、ボクシング競技を極めることが誇りなのであろう。
ただの喧嘩ではない。駆け引きが面白い。
山形県出身で小・中学校では全国レベルのレスリング選手としてずっと活躍してきた。高校でも続けるつもりだったが、第一志望校には不合格。進学した日大山形高校にレスリング部はなかった。どうしようかと思っていたところに強面の先輩が近づいてきて「ボクシング部に入れ」と一言。とにかく怖くて、これで未来が決まってしまったのだ。

「断れませんよ(笑)。でも、すぐに楽しくなった。ただの喧嘩でなくて、駆け引きがあるんだって。相手にこれを打たせて、ギリギリでかわして打つとか。レスリングと違ってパワーがなくても勝てるというのも、面白いと思いましたね」
初めて出た試合では、怖い先輩に「ジャブがいいから、それだけ打って逃げろ」と指示された。ボクシングではまずジャブ、といわれる基本のパンチだ。で、それ一本で東北の強豪に勝ってしまう。
のめり込まないほうがおかしい。高校ではインターハイのベスト8、中央大学法学部に進学して1年時に国体で3位、4年時は国体で準優勝。
もちろん、この戦歴は誇れるが、岡澤には満足できるものではなかった。だが、大学卒業後は就職することに決め、4年のときには就職先も決まった。そんな彼に一本の電話がかかる。

「ボクシング競技に対する悔しさみたいなのはあったんです。そんなときに後輩が“鹿児島県の国体に向けて、強化指導員兼選手としてやってみないですか”と、声をかけてくれた。“先輩は絶対にボクシングを続けたほうがいいですよ”って。うれしかったです。よし、やろうと思いました。ただ、就職祝いもしてもらっていたから、鹿児島へ行くギリギリまで両親には言えなかったです」
18年にバッグひとつで鹿児島へ。給料は出たが、東京へ遠征したりと生活は厳しい。ただ、食べる、練習する、眠るという毎日は、ボクシング競技と向き合うために貴重な時間となった。練習量も大学とくらべて飛躍的に増えた。今の岡澤はここで作られたといっても言い過ぎではないだろう。
その成果はすぐに表れる。この年、全日本選手権で優勝。翌19年にアジア選手権で銀メダルを獲り、全日本を連覇する。勢いに乗った岡澤はそのまま東京オリンピックへと進んでいくのである。
業界のためになんて、もうそれどころではない。
そして、ちょうど東京オリンピックの出場を決めたとき、岡澤は新たな挑戦に出る。当時は給料だけで競技を続けるしかない時代。競技の未来を考え、スポンサーで生計を立てられる選手がいてもいいのでは、と考えたのだ。で、自らが実践した。

「鹿児島での恩師・荒竹俊也会長(Wild.b SPORTS・ボクシングジム)に相談したら“セオンならきっとできるよ”って言ってくれて。会長の車でスポンサーになってくれそうなところをいろいろ回って、挨拶してもらったりして。さらには一番重要なことですが、日本ボクシング連盟にも一緒に掛け合ってくれて、個人スポンサーをつけてもいいという仕組みに変えてもらった。これは、連盟の方々の尽力もあったんです。だから今は、会長をはじめいろんな人に感謝しかないですね」
これだからプロのアマなのだ。そして、岡澤が思い描いた道は、パリ・オリンピックで優勝して引退であった。しかし、パリでも初戦である2回戦で敗退してしまう。今は後がなくなったという状況なのだ。

「パリまではボクシング競技を変える、そのためにオレはやっているんだと思っていたけれど、もうそれどころではない。自分のことだけで精一杯って感じです(笑)。もちろん最終的にはロス(・オリンピック)を目標に置いてはいますが、今は9月から名古屋で行われるアジア(競技)大会(優勝すれば連覇となる)の金メダルに向けて、全力でやっているところですね。実は、ボクシング競技は中東の選手が強いんです。去年の世界選手権の決勝で負けた(岡澤は準優勝)、カザフスタンのトレハン・サビルハンには勝てるようにしないといけない。他にもいい選手が揃っているので、それらの対策もある程度していきたい。これから2週間ぐらい海外へ行くので、そこではこれまでやってきたことをカラダに落とし込む作業が大切になります。たとえば、ワンツーの打ち方とかブロッキング。それを動きながら、強い相手に対してどう使っていくか。頭で考えていたら遅い、すべては反射のようにできるようにならないといけない。ちょっと急ピッチで名古屋に間に合わせていこうと思っているところなんですよ」

