プロを諦めたサーファーが見つけた、求道的でピースフルな日常。|ローカル・ヒーローに会いに行く。Vol.1
大会での成績よりもSNSの発信よりも、大切なことがある。メディアに登場することはほとんどなくとも、ローカルたちは知っている。そのストイックな姿勢を、素晴らしいバイブスを。リスペクトを集めるローカル・ヒーローはきっと、その街を少しずつ良い方向に導いていく。第一回は、鎌倉の波でダブル・ピースを決めながらサーフィンする男。陽気で、誰よりも早起きのサーファー、大木新次の物語。
取材・文/村岡俊也 撮影/三浦安間
自然の中での遊びを突き詰めていくと、求道的にならざるを得ないのかもしれない。日々変わるコンディションに自らが合わせるほかなく、そのために生活を律するようになる。それはプロでもアマチュアでも変わらず、技術レベルの高低も関係ない。ただし、年齢的な成熟は必要かもしれない。
鎌倉の酒店『高崎屋』の次男として生まれた大木新次もかつてプロを目指していた20代初めには、大酒を飲み、遠征先の全国各地で裸踊りを披露していたという。陽気なキャラクターは40代後半となった今でも変わらないが、暮らしは慎ましく、その分だけ豊かになった。
ひと目で、只者ではないとわかるライディングをするが、鎌倉の海でも彼の存在を知らないサーファーも多いかもしれない。なぜなら、毎朝陽が昇り切る頃には、海から上がってしまうから。
夏至近くの早朝3時45分、海沿いの134号線には車もほとんど走っていない。サーフボードをキャリアに乗せ、原付自転車でやってきて海を眺める。東の空に微かな明るみが差し始めるが、月明かりと共に辛うじて波が観察できるくらい。
大潮の満潮近く、鎌倉・由比ヶ浜の端にある、いつものポイントが南東方向から来るうねりを拾っている。脇に抱えた少し長めのクラシックなシングル・フィンは、どんなコンディションにも対応してくれるという。短めの尖ったボードの出番は、一年を通じても、ほとんどなくなってしまった。
夏場は暁の3時半過ぎには海に入り、1時間ほどで上がる。家に帰って犬の散歩をし、朝食を食べてから石材店の仕事へ向かう。日の出の遅い冬場は順序が逆になり、暗いうちに犬の散歩を済ませてから海に入り、クイックに30分ほどサーフィンをして、仕事へ。
「その日のうねりと潮周りと風を考えて、そろそろ大潮で朝に満潮が来る周期だから、このポイントかな、みたいに選んでる。そうすると、だいたい毎日サーフィンできる。めちゃくちゃ小さい時もあるけど、でも、できるよ。風が海から吹くオンショアでサイズの小さいときは、たまに休み。やりすぎるとケガしちゃうからね」
相模湾のさらに奥まった鎌倉は、内海のために波のサイズは小さい日が多いが、湾になっているために東西どちらからのうねりにも反応するポイントがある。潮位の高低、風向きによってその日にもっとも良いポイントは変わり、大木は自宅すぐの材木座から稲村ヶ崎を越えた辺りまで、半径1km以内に点在するサーフポイントを詳細に知り尽くしている。
早朝に波乗りと犬の散歩をした後、遅くとも7時には出勤する石材店での現場仕事は多岐に渡る。墓石の運搬、設営から、墓周りの清掃、除草のほか、民家の外構など、日によって場所も内容も違うが、鎌倉市内から外に出ることはほとんどない。
働いた日数分だけ月給として支払われるため、雨が降って現場に出られなければ、その分、給料が減る。だから週末でも構わず、働ける時には必ず仕事に出る。「お金をもらえて、トレーニングにもなって、木漏れ日の下での昼寝が気持ちよくて、一石三鳥だよ」と笑うが、体力勝負のハードな仕事。
夕方、家に帰ってきて作業着のままビールをひと缶飲んで、犬の散歩をしてから晩御飯の支度、洗濯、翌日の弁当の準備をしていたら、あっという間に就寝時間になる。22時を過ぎて起きていることはなく、翌朝も3時には目を覚ます。26歳でこの生活を始めてから、もう20年以上が経った。
中学2年生の時に鎌倉・由比ヶ浜でサーフィンを始め、17歳からハワイやバリ島など、世界有数のポイントに通い、年代別の日本代表に選出されるなど、波乗り一色の生活を送った。
22歳でアマチュアの最高峰である全日本サーフィン選手権大会に優勝。そのままプロ・サーファーになることを目指していたが、24歳の時に妻の幸子が妊娠する。10代からサーフボードのスポンサーとして世話になっていたY.Uこと植田義則に報告に行くと、「シンジ、プロは諦めろ。これからもずっと、板は削ってやるからよ」と言われた。
植田は、サーフィンの世界では神様と慕われるジェリー・ロペスと深い親交を持ち、国内外のトップ・サーファーに板を削ってきたレジェンド・シェイパーであり、大木にとっては歳の離れた地元の先輩でもある。
「17歳で初めてY.Uのライダーにしてもらった時、植田さんが『うちはファミリーだから。家族だと思ってるから』って言ってくれたんだよね。それからはもうずっと、本当のお父さんみたいな感じ。子どもができましたって挨拶に行ったら『諦めて父親になれ』って言われた。植田さんのその一言で変わったのかな、もう切り替えようかなって」
植田には、彼の実力ではプロの世界では通用しないことがわかっていたのかもしれない。年齢的にも限界だったろう。それでも踏ん切りのつかない大木は、サーフィン関連のアイテムを扱う商社で働き始める。そこは、80年代に日本のプロツアーでグランド・チャンピオンを獲得し、ワールドツアーにも参戦していた同じく鎌倉の先輩、関野聡が兄と共に立ち上げた会社だった。
「プロサーファーが訪ねてきたりする職場だから、どうしても『いいな、こういう生活したい』って未練がましく思っちゃってた。それで聡さんに『相談があるんですけど』って声をかけたら、飯食いに行こうと。焼肉を食べながら、『もう一度プロを目指したい』っていう話をしたら『辞めた方がいいよ』って。『プロでやっていくなら、メンタルも含めて、トレーナーをつけなきゃいけないし、それなりの資金も必要で、生活なんかできなくなるよ』って言われた。今でも思い出すと本当に悔しくなるけど、でも、よかったよ。ただ『頑張れ』って言われて頑張っちゃってたら、今の生活は送れていないから。地元に良い先輩がいて、それで今の生活があるんだよね」
世界を知る鎌倉の先輩たちに諭されてから、コンテストにはほとんど参加していない。「仕事を休まずに行ける」という理由で、2005年に鎌倉の隣町である藤沢市鵠沼海岸で行われた全日本選手権に出場するも、ファイナルで対戦相手に「結構、疲れましたねー」と話しかけている間に波に乗られて準優勝。
大木は、プロとして戦うには人が良すぎたのかもしれない。それから2013年に、24年ぶりに行われた「稲村サーフィンクラシック」に出場したくらい。稲村ヶ崎に大きな波が立ったときにしか行われない伝説の大会は、招待されたローカルとトッププロだけしか出場できない。大木は、もう20年以上招待され続けている。
どれほど波が良くても短時間で海から上がり、仕事に行って汗をかいて石を運ぶ。プロを諦めてからは、そうやって家族の暮らしを支えた。
「仕事ばっかりしてたから、子どもたちは小さい頃は寂しかったんじゃないかな」と振り返るが、働く父の姿を見て育った息子の一郎は、「勉強しないと俺みたいになるよ」という大木の言葉に奮起して、台湾の大学に留学中。
娘の咲桜は、ボディボードのプロとして戦うべく、オーストラリアに滞在する予定だ。妻の幸子は、2018年に念願だったボディボードのプロ資格を取得している。
大木は鎌倉から出ることはほとんどないが、家族は海外留学をしたり、プロツアーを転戦したり、飛び回っている。もしも大木自身がプロの道を選んでいたら、きっと叶わなかった景色を見ている。
「家族それぞれが自分の道に全力で生きているところがすごいと思ってる。うちの奥さんなんて、波乗りして仕事して帰ってきて、家のことやって、夜ドラマを観てるからね(笑)。俺なんて、すぐ寝ちゃうのに。生きる力が強いよ。一郎は、本当に優しい。自分の道を選んでいるしね。咲桜もバイトを掛け持ちしながら、家でもずっと英語を勉強してる。波乗りも良くなってるし。みんな本当にすごい、いつの間にかそうなってたね」
自身の人生に関しては、「面白味がないんだけどね、いつも同じだから」と語るが、大木の背中はあまりに雄弁だとも思う。それは家族だけでなく、同じ海に入るサーファーたちにとってもいい影響を与えているはずで、大木はストイックな日々を重ねているのに、誰にでも等しく優しい。ローカリズムが強烈な鎌倉で育ったにも関わらず、排他的な姿勢は微塵もなく、周囲には常に笑顔が溢れている。「だって、みんなの海じゃん」と言う。
「いや、恥ずかしながら高校一年生くらいまではトゲトゲしてたんだよ。地元だからって威張ってて、『俺たちの海なんだから、調子に乗るな』みたいに思ってた。でも、そう言った相手が、沖に出て波に乗ったら、スパーン!ってめちゃくちゃサーフィンうまかったんだよ。すごく恥ずかしかった。俺って、なんて小さい人間なんだって。だからまあ、そういう失敗を重ねて、気づけた部分もあるよね」
そうは言っても、自身が友人たちと発見したサーフポイントに、その事実も知らないサーファーが増えていることについて聞くと、「ほとんど人のいない時間にしか入ってないからな」と、少し困惑したように笑った。
「なるべく人のいない朝にちょこちょこっと、5本くらい乗れればいいじゃん。混んでいる時間だったら5本乗るのも大変だけど、空いてれば20分も入れば乗れちゃうから。もちろん、もうちょっと海に入っていたいけど、でも疲れちゃうし、明日もやりたいって思うくらいがちょうどいい」
いつも気づけば、サッと知らぬ間に海を上がってしまう。彼にとってサーフィンは人と競うものでも、誰かに見せるものでもない。生涯をかけた、探求の対象。それ以上でも以下でもないが、ゆえに上手くなりたいという気持ちはかつてと変わらず強く持っている。ほとんど毎日、海に入るたびに発見があり、知らなかった波乗りの魅力に出会うという。
いつも乗っているクラシックな板は、もう20年近く前に、娘の咲桜がお腹の中にいる時に妻の幸子がどこからか拾ってきたものという。ボロボロだった板をオーバーホールしてくれたのは、地元の一つ年下の友人だった。
一緒にハワイにも通っていた彼が、サーフボードを削るシェイパーを目指してY.Uの工場で働き始め、「やっとサーフボードの一通りをできるようになったから、僕にやらせてください」と言って、新品のように生まれ変わらせてくれた板だった。その友人は、それから数年も経たぬうちに亡くなってしまった。
「だから、あの板が登場することが多いんだよね。今日も行こうかっていう感じで、話しかけちゃうんだよね。いつもありがとねって」
「自分のいつもの生活に満足している」という大木は、周りを見回して、自分だけの波を見つけて漕ぎ始め、シングルフィンで大きなカーブを描いてターンを決めた。
真剣に、けれど笑っている。もう一本乗るために沖に戻ってくるかと思ったら、海から上がってしまった。恍惚とした表情のまま、朝日を浴びて原チャリにまたがる。時間は、5時を少し回ったところ。家では犬たちが帰りを待っている。
Profile
大木新次(おおき・しんじ)/1976年鎌倉市出身、在住。由比ヶ浜通りにある老舗酒店・高崎屋の次男として生まれる。1998年に全日本サーフィン選手権大会メン・クラス優勝。現在は、鎌倉の石材店〈石春産業〉で働いている。二児の父。