「僕はアマチュアで世界一になろうと思った」ボクシング・田中亮明
東京2020のボクシング男子フライ級で、見事銅メダルを獲得した田中亮明選手。彼はどのような意気込みでその舞台に臨んだのか。大会前に本誌で取材したインタビュー内容を全文掲載する。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.815〈2021年7月21日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.815・2021年7月21日発売
夢見た大会に、ようやく辿り着いた。
“グァー、ウォー、グウァ”、名古屋にあるKBS TRAINING GYMに響き渡る声。田中亮明が顔を歪めている。数々の一流アスリートを育ててきた名トレーナーの河合貞利さんは、田中のトレーニング動作のちょっとした乱れも見逃さず、すぐにカラダを掴んで補正していく。
手を抜けるスキは完全にないし、田中にもそのような様子はまったく見られない。「マジ、キツイっすよ」と、トレーニングが終了したときに田中は息絶え絶えにそう言った。そのメニューがこれである。これほどの負荷がかかるトレーニングは、これまでほとんど見たことはない。
田中は今年3月20日、東京オリンピックのボクシングフライ級代表に選出された。JOCの強化コーチ、ウラジミール・シン氏は「田中選手は経験も申し分ないし、非常にスマートであり、大変なテクニシャンですから、メダルを獲る資格はすべて揃っています」と評価した。これについてどう思うかと尋ねると、
「僕のボクシングスタイルは、まぁ上手いなとは自分でも思います(笑)。面白い試合ができるのが持ち味かな。一発で倒すKOとかが、けっこう多いんです。パンチを当てて、相手が尻餅をつくとか。そういうのがあったほうが、盛り上がるじゃないですか。派手なシーンですからね」
そう、田中の言うように、アマチュアボクシングでのKO勝利は、よくあることではない。というのも、アマはグローブが厚くて重く、試合は3ラウンドだ。かつレフェリーが選手の間に割って入ることが、プロとは比べられないぐらい多い。一般の人が間違えるのがココ。プロとアマはまったく違う競技であり、優劣は簡単にはつけられないのだ。
「“アマでしょ”ってよく言われますね。アマチュアっていう言葉の響きが弱さを表しているのか、プロの下というイメージを持たれることが多いんです。ただ、競技性の違いなんて説明しづらいじゃないですか。だから、“でも、僕は弟より強いよ”っていつも言っているんですよね」
田中の弟の恒成は、世界最速で3階級を制覇したプロボクサー。それよりも強いというのだから、誰もが口をつぐんでしまうだろう。あのトレーニングをこなして、こんな発言をする。真面目さと強気が同居している、そんな印象が田中にはある。
同じ重量ならば負けないと思った。
田中が5歳で、弟の恒成が3歳のときに空手を始める。恒成は成長するに従い、大会で活躍するようになったが、田中はなかなか勝つことができなかった。面白くなかったし、「兄弟仲も悪かった(笑)」と言う。そして、中学校に入ると地元・岐阜県多治見のアマチュアジム、〈イトカワボクシングジム〉に通い始める。
「亀田兄弟とか長谷川穂積さんとかがテレビで試合をやっていた頃で、僕もボクシングに興味を持ち始めていたんです。父も僕たちにやらせたかったみたいで、じゃあお願いしようかということになったんですね」
すぐに夢中になった。というのも、空手には階級がなく、大きな選手とも戦わなければならなかった。小さかった田中には不利である。ところが、ボクシングは同じぐらいの重量の選手で競われる競技。これが気に入った。同じ体格のヤツなら絶対に勝てると思った。そして、実際にやってみたら、とても楽しかった。
「それで、僕が中学校2年生のとき、地元の中京高校にボクシング部ができた。監督は石原秀康先生で東洋太平洋スーパーフライ級の元王者です。ただ、道場がなかったので、先生がイトカワジムに生徒を連れて練習に来るようになった。それまで、僕は将来の夢なんてなかったのですが、ボクシングで中京高校に行きたいと、初めて思うようになったんです」
願いが叶って見事中京高校に入学。そこにはヤンチャで強い先輩がいっぱいいた。石原先生がケンカ好きを引っ張ってきて、更生を兼ねてボクシングを覚えさせようとしたようだ。そんな先輩たちと練習を続け、田中は実力をつけていった。そして、高校3年生のときに国体の少年の部で優勝したのだ。ただ、と田中は言う。
「僕と井上尚弥君(WBSSバンタム級初代王者)は同級生で、インターハイなどで4回戦って4敗だったんです。それで、優勝したときの国体は、彼が海外の試合に出場していていなかった。だから、優勝はうれしかったけれど、井上君に勝つという目標でやってきたのにという、悔しい思いはずっと残りましたね」
だが、圧倒的な強さを誇った井上と、唯一まともに戦えたのは、田中だけだったことは、ここではっきりさせておこう。このことからも、彼の力はわかってもらえるはずだ。
駒沢大学へ進む。進学の理由は真のチャンピオンになるため。高校では本当の王者にはなれなかった。だから、大学でと思ったのである。そこからが凄まじい。国体で4連覇し、大学4年生のときに、全日本選手権で初優勝を果たすのである。
「国体の4連覇はうれしくなかったです。国体が開催される時期は海外の大会と重なって、強い選手が出揃うわけではない。勝っても本当のチャンピオンという感じがしなかった。だから、大学4年生のときに全日本で優勝して、ようやく日本一になれたんだと思うことができたんです」
続けていけばチャンスは必ずある。
そして、この優勝が田中に新たな夢を与えることになる。それが、アマ最高峰の大会、オリンピックだ。
「目標は全日本だけでした。ところが、そこで優勝したときに自動的にリオデジャネイロ・オリンピックの代表候補になることができた。それまで、どうやったらオリンピックに出られるかもわかってなくて、だから何とも思っていなかったんです。ところが、それが向こうからグッと近づいてきた。それで、次はオリンピックということになったんです」
残念ながら、リオは世界最終予選で敗退。そして、田中は大学卒業後は教師の道に進む。出身校の中京高校で授業をし、ボクシング部を見ながら、練習を重ねていったのである。その原動力となったのが、出場できなかった悔しさだった。
「弟は、僕が大学3年のときに世界チャンピオンになりました。だったら、僕もアマチュアで世界一になろうと思った。続けていけばチャンスがあると確信していました。教師をやりながらだったので、かなり無理をした部分がありましたが、夢は絶対に叶えたいじゃないですか」
2019年、東京オリンピックの予選代表選考会でもある全日本のフライ級で優勝する。彼自身、全日本では3度目の優勝で、これにより前述したように、今年3月に代表に選ばれたのである。そしていよいよ、田中が待ちに待った夢舞台が開幕する。コロナ禍の中で、紆余曲折があったが選手としてやることは一つだ。
「フィジカル面に関して言えば、僕はずっとトレーナーの河合さんを信頼してやってきました。河合さんがくれるメニューをやってきたのだから大丈夫だと思っています。そして、ボクシングの技術面に関していえば、父親の存在が大きい。弟が世界チャンピオンになれたのも、父のサポートと指導だったのですから。
だから、この2人に鍛えてもらったことは、僕の中で大きな自信に繫がっています。オリンピックは本当に夢見た大会ですし、今はやっとここまで来たかという心境です。ただ、出場できることだけで、満足してしまってはいけない。これまで応援してくださった皆さんのためにも、必ず金メダルを獲りたいと思っています」