武居由樹(ボクシング)「まだまだ未完成、満足してる場合じゃない」
K-1チャンピオンがプロボクサーに転身。わずか9戦で王者になった彼の生き方とは。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」No.882〈2024年6月20日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.882・2024年6月20日発売
Profile
武居由樹(たけい・よしき)/1996年生まれ。170㎝、53kg、体脂肪率3.5%。10歳からキックボクシングを始める。2017年、K-1WORLD GP第2代スーパーバンタム級王座決定トーナメントに出場し、優勝してスーパーバンタム級王座を獲得。キックボクシング時代の成績は、25試合23勝2敗、16(T)KO。20年、ボクシングへの転向を表明し、大橋ボクシングジム所属選手となる。八重樫東コーチに師事し、デビューから8連続KO勝利。今年5月6日、WBO世界バンタム級タイトルマッチでチャンピオンのジェイソン・モロニー(オーストラリア)を判定で下し、世界王者となった。
前日には不安はまったく消えていた
気合とともに繰り出した左ストレート。サンドバッグは大きく凹み、グラリと揺れる。「あれ喰らったら完璧ダウンね」と言うと、「いや、死にます」と編集者が返す。確かに…死ぬ。ハードパンチャーである。しかし強さを誇るようなことはまったくないし、練習中に見せる笑顔も爽やか。受け答えも真面目で真摯だ。天は二物どころか、三物も四物も彼に与えたのだろう。
武居由樹は今年5月6日に東京ドームで行われた井上尚弥の世界戦でセミファイナルに出場。WBO世界バンタム級王者のジェイソン・モロニー(オーストラリア)に勝利し、チャンピオンとなった。観衆は4万3000人。実は武居は元キックボクシングK―1の世界王者で、プロボクシングと両方でチャンピオンになったのは初。そんな彼だから、大観衆の中での戦いは慣れていると思ったが、どうやら違ったようだった。
「両国(国技館)とか、さいたま(スーパーアリーナ)とかでやらせてもらったりしていたのですが、やっぱりドームは観客の人数が多いと思ってました。だから、動揺しないようにって。ただ試合前は、不安はなかった。1か月前とかは、練習がキツくてケガが怖かったり、勝てるかなという気持ちがありました。でも、そういうのがだんだんなくなっていって…。研ぎ澄まされていった感じです。ちゃんと準備してきたから、大丈夫だろうという覚悟で臨めた。もう本当にやるしかないっていうふうに変わっていったんです」
ボクシングに転向してから、八重樫東さんの指導を受けた。八重樫さんは元世界3階級制覇王者である。武居の普段の体重は63kgほど。ボクシングの技術的な面だけではなく、53.5kgまでの約10kgを減量する方法も八重樫さんに教えてもらった。
「K-1時代は何の知識もなくて、ただ水を抜くって感じでやっていたのですが、ボクシングを始めてから、今思えば本当に当たり前のことなんですけど、たとえば脂肪を削って計画的に落とす方法を八重樫さんに教えてもらった。6週間ぐらいかけて落としました。だから、本当にコンディションもメンタルもいい状態で、試合を迎えることができたんです」
体重の計量は試合前日。もちろんクリアした。そして、ここでクリアしたら、翌日の試合まで選手の飲食は自由。つまり、体重は増えていく。
「食べるのはおかゆとかうどんなどの炭水化物。すぐにエネルギーになりますから。試合までに水と合わせて、だいたい7kgぐらい戻ります」
これで、すべてが整った。最高の状態で東京ドームに響く声援を受けながら、武居はリングへ上がった。
勝った相手との再戦、もうここじゃないと思った
K-1からの転向にはもちろん理由がある。武居はこう語ってくれた。
「チャンピオンになってから、モチベーションが低下してしまって。当時のK―1はそこまで選手層が厚くなかったんです。一回倒して勝った相手と、すぐにタイトルマッチをしてくれと言われたときに、もうここじゃないなと思ったんですよね」
ちょうどその時期、井上とフィリピンのノニト・ドネアのタイトルマッチがあった。ドネアは世界5階級制覇王者で、この試合後に井上も「めちゃめちゃ強かった」と語ったほどの選手。井上が判定で勝利した。
「見て一瞬でボクシングってスゴいなと思って。あのときの会場の雰囲気とか、空気感がすごくかっこよかった。前のジムの会長(キックボクシングジム〈パワー・オブ・ドリーム〉の古川誠一さん)が〝ボクシングに行ってこい〟って言ってくれた。それで、やろうと思ったんです」
そして古川さんと繫がりがあった大橋ボクシングジムに入団。会長の大橋秀行さんは元WBC・WBA世界ミニマム級王者だ。ここで八重樫コーチと出会う。ただ、転向してすぐは武居を批判する声もあった。それは純粋にボクシングだけをやってきた正統派ではなかったから。武居のパンチを出すタイミングやステップワークなどが独特だったのだ。
「もっとちゃんとしたボクシングをやったほうがいいと言う人もいました。ただ、スパーリングをした選手から、僕とは〝やりにくい〟と聞いてましたし、リズムが自分の武器ですから。それを崩さずにやらせてくれた八重樫さんのおかげなんです」
デビュー後、武居はハードパンチでKOの山を築く。8試合連続KO。そして9戦目が世界チャンピオンとのタイトルマッチとなった。
カラダはしんどかったが、頭の中はすごく冷静だった
「綺麗なボクシングができない」と言って武居は笑うが、このスタイルがチャンピオンを翻弄した。序盤、鋭い左のボディが何度も決まり、優位な戦いを繰り広げていく。
「作戦通りといえばそうですけど、本当は早いラウンドで倒すというのが理想だった。ラウンドが経つに従って、相手が優位に立つ展開になると思っていましたから。ただ、やっぱり世界チャンピオンだからテクニックがすごいし、強いパンチを簡単には当てさせてくれませんでした」
中盤は武居が言った通り、一進一退の好試合となる。だが最終の12ラウンド。相手の猛攻に、傍らで見ていてヒヤリとする瞬間があったのも確かだ。しかし武居は慌てなかった。
「カラダはしんどかったけど、すごい冷静だったんです。相手のパンチも要所はちゃんと見えていたと思いますし、返しもできていました」
フルに戦い3-0の判定で勝利。新チャンピオンになった瞬間、武居は八重樫さんに抱きついた。
「その場面を見返すと恥ずかしいんですけど(笑)。あのときの観客の声がワーッとなって、すごいなぁって思っていました。チャンピオンになったと実感したのは、周りの人におめでとうと声をかけてもらってからですね。少しずつよかったという気持ちになっていきました」
これからはチャンピオンとして追われる立場。相手も武居のボクシングを研究してくるだろう。この先の自分をどう考えているのか。
「自分のボクシングはまだまだ未完成なので、満足している場合じゃないと思っています。先を見ないといけない。まだできないことも多いので、それを減らしていかないと。この先はもう本当に強い選手しかいないので、今のままじゃすぐやられてしまう。でも実は僕、他の選手のことはほとんど知らないんです(笑)」