「兄のメールに奮起。連続出場の五輪へ、死角をなくす1年に」カヌー選手・矢澤亜季
父に指導を受け、兄の背中を見て成長してきた。ロンドン・オリンピックでは兄妹出場を逃した妹は、兄に励まされながら、世界のトップへと近づいている。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.789〈2020年6月11日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.789・2020年6月11日発売
東京オリンピック延期に対する、今の心境
2018年にジャカルタで開催されたアジア大会のカヌー競技で、日本人女子初の金メダルに輝いたのが矢澤亜季である。
彼女は昨年行われた日本選手権でも6度目の優勝を決め、リオデジャネイロ・オリンピックに続き、2大会連続のオリンピック出場を手中に収めた。ところが、ご存じのように、新型コロナウイルスの影響により、東京オリンピックは開催が1年延びてしまった。まずは、彼女に現在の心境はどのようなものか聞いてみた。
「マイナスな思考はないですね。自分ではどうすることもできないし、いろんなことを考えて判断されたと思うので、しっかり準備して戦うだけです。本番の舞台でいいパフォーマンスができるように、今は山中修司コーチ(日本カヌー連盟専任コーチ)と練習を積み上げたいと思っています」
矢澤が取り組んでいるのはスラローム・カヤック。流れのある河川、あるいは人工コースを、決められたゲートを通過しながら下り、そのタイムを競うという種目だ。
逆巻く流れの中を、あるときは豪快に、あるときは繊細にカヌーが進んでいく様は迫力満点であり、選手の力強さ、バランス感覚のよさを、はっきりと教えてくれる。矢澤はこの種目の魅力を、こんなふうに語ってくれた。
「もちろん競技としての魅力はたくさんあるのですが、まずカヌーの魅力は自然や四季を感じられることだと思います。春だったら桜がすてきですし、秋は紅葉がとてもきれいですね。のんびりとした気持ちで、そういった風景と触れ合うことができる。最初から流れのある川でやるのはちょっと無理だと思いますが、流れのない場所でなら誰でもできますし、体験できる教室のようなものもある。だから、本当にいろんな人にカヌーを楽しんでもらいたいです」
矢澤には原風景といえるものがある。それが、天竜川。長野県に発し、愛知、静岡を経て太平洋に注ぐこの大河川は、伊那谷など自然豊かな土地を巡っていく。
しかし、美しいだけではない。“暴れ天竜”という異名を持つだけあり、その流れは速く、そして押しが強い。矢澤はこの川で、父に導かれ、兄の背中を見ながら、カヌーという競技を始めたのだ。
外国人選手たちのレベルには衝撃を受けた。
最初に始めたのは、兄の一輝だった。彼は北京から、リオデジャネイロまでの3大会連続出場を果たしているのだが、僧侶という一面も持つ。お坊さんアスリートと話題になったことを覚えている人も多いだろう。
矢澤は兄がカヌーを漕いでいる姿を見て、自分もやってみたいと思った。小学校3年のときである。
「最初は流れのないところから始めたのですが、陸の上とは全然違っていて新鮮でした。カヌーに一人で乗って、パドルで操作して、好きなところへ進める。今までにない経験だったし、不思議な感覚でしたね。ふわふわしてるし、水って怖いと思う人も多いと思うんですが、自分と水の距離感がつかめてくると、怖さよりも楽しさが大きくなるんです」
そのころ、いくつか習い事をしていた。水泳、お茶、そして西川流日本舞踊。とくに日本舞踊は3歳から始めていて、夢中だった。「足腰を使うのと体幹が鍛えられる。しなやかな動きもカヌーに活かせている」と、矢澤は語る。
だが、しばらくすると、カヌーへのウェイトが大きくなっていく。週末にプラスして、平日の3日が練習日となった。何がすごいかといえば父だ。仕事が終わって6時ごろに帰宅すると、2人を車に乗せて練習場に連れていくのだ。
「発電機を持っていって、ライトで川を照らして、ゲートを設置してくれました。もちろん夜ですから、流れの激しいところでは、やりません。ただ、父が練習するのに適したポイントを、天竜川の本流にいくつか探してくれていたんです。すべて、父がやってくれたおかげで、今の兄や自分があると思っているんです」
それでも、競技に取り組んでいるという姿勢ではなかった。ただ楽しかったのだ。ところが、一輝がどんどん上達していく。それに追いつこうとするうちに、自然とスラローム・カヤックへの道が開けていった。
「兄は3歳上なんですけど、中学校に上がったころから、トップ選手になるための練習をしていました。私よりカヌーが好きでしたね。それで、私もやらなくちゃと思うようになって…。まぁ、一緒に練習していると、父も兄を中心にしますから、当然、私もついていくしかない。それで、中学2年のときに日本ジュニアで優勝できて、3年のときに世界ジュニアに出場することになったんです。そのころから、オリンピックを目指そうと思うようになりました」
ただ、世界ジュニアでは外国人選手の実力に度肝を抜かれた。多くの選手が人工コースという、すばらしい環境の中で練習していたのだ。当時の日本にはなかった。というより、東京オリンピックの開催が決定してからコースの建設が行われ、19年の夏にやっと完成した。
矢澤は、後にスロベニアに練習拠点を移すのだが、それもよりよい環境を求めてのことだった。日本では、河川のみが練習できる場所だったのだ。
「海外では人工コースが多く、流れがとても強いし、常に同じ流れで練習ができる。自然の川だと、天候によって水量も変わり、できない日もある。外国人選手はレベルが違いましたね。私もカヌーを一所懸命コントロールしようとするんですが、どうしても流されて、ゲートをスムーズに通過できない。予選敗退で、びっくりというか衝撃を受けました」
しかし、矢澤には有利な点があった。押しの強い天竜川で練習していたため、激しい流れへの恐怖心がなかったのだ。
中学まで厳しい練習を父や兄と取り組み、高校からは兄の住む東京都青梅市に住居を移す。それからは、多摩川が練習場だ。常時ゲートが設置されていて、激しい流れを生むこの川は日本では最高の環境を与えてくれた。
高校3年時には全日本選手権で優勝し、大学は駿河台大学に。11年にはNHK杯で優勝し、破竹の勢いのまま翌年にはロンドン・オリンピックが視野に入った。
「キャリアで初めて臨もうとしたオリンピックで、思いが強すぎたんです。選考会でもあるアジア大会で失敗してしまって。予選、準決勝とトップ通過だったのに、決勝は最下位。もうやめてしまおうと思いました」
兄の存在が大きかった。長文のメールで、競技を続けるよう、強く勧めてくれたのだ。一輝はことあるごとに、妹に激励を送ってくれるのである。これは矢澤が昭和飛行機工業に入社して、社会人としてスタートしたときの話だが、大会で結果を残せないとき、兄からメールが届いた。
「君の仕事の結果はカヌーの成績であって、それが残せないようじゃ、会社に貢献できない。自分が必要と思われる人間にならないと、って感じの内容でした。キツイ言葉ですが、いつもメールに奮起させられていて、それは感謝していますね」
次のオリンピックを目指そう。矢澤は歩みを始める。兄の?咤激励。コーチをはじめとする関係者の支え。そして、もちろん矢澤自身の努力によって、見事、4年後のリオでは、兄妹での出場を果たしたのである。
難しい状況だけど、やれることをやるだけ。
今、アスリートたちは練習ができないという苦境に立たされている。矢澤も満足には練習できていない。
「今でも拠点はスロベニアなんです。世界のトップ選手がいて、それを間近で見られるというのは、最高の刺激になりますから。日本ではビデオとかでしか見られませんからね。ただ、今年は7月にオリンピックが開催される予定だったので、早めに日本に戻ってきたんです。人工コース(東京・江戸川区にある前述したコース)での公式練習が、1か月に1回ぐらいのペースで設けられていましたし。ところが、こういう状況になってしまいコースはクローズ(5月20日現在)。スロベニアにも行けないから、非常に難しい環境なんですね。でも、そんな中でもやれることをやるしかないと考えています」
矢澤は「みんな同じ条件でやっていますから」と言って、笑う。確かにその通りなのだが、オリンピックの出場を決めた選手たちの心境は計り知れるものではない。
ただ、目標に向かって、どんなに遅い速度でも歩いていくしかないのである。彼女は来年の東京オリンピックにどのような思いを馳せているのであろう。
「本来なら、ワールドカップを転戦して試合を重ねていきたいんですが、それもどうなるかわかりませんからね。ただ、前々からオリンピックでは世界の仲間と“万全な状態で”戦いたいと思ってきた。だから、その準備だけはしっかりやっていこうとは思っています。そのためには、持久力、筋力ともに上げていく必要がある。どちらも、徐々にですが世界のトップレベルと競い合えるところまで来ているんです。もう1年あれば、そこをもっと強化できるんじゃないかと考えています。それに、私の競技ですと、オリンピック会場の人工コースで練習できれば、外国人選手よりずっと有利になる。再開してくれるとうれしいです。とにかく、1年の延期をネガティブにとらえずに、新たに与えられた自分が成長できる時間だと思ってやっていくつもりです。そうすれば、オリンピックでのメダルも見えてくるんじゃないかと思っています」