長瀬凛乃(フェンシング)「2回のチャンス、 モノにできれば理想」
パリ・オリンピックでメダルを量産したフェンシング。若手で今、一番の進撃を見せているのが彼女である。強い先輩に抱く畏敬の念とライバル心。彼女は走り続ける。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2025年3月19日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.899・2025年3月19日発売

Profile
長瀬凛乃(ながせ・りの)/2005年生まれ。165cm、51kg。小学校3年生のときにフェンシングを始める。岐阜市立境川中学校の2年時に、全日本選手権ベスト16。県立岐阜総合学園高校から日本女子体育大学へ。インターハイ個人2連覇・団体優勝、世界ジュニア選手権3位・団体準優勝。24年、全日本選手権初優勝。25年のアジアジュニア選手権優勝・団体優勝。
目次
長い時間ゾーンに入った。試合が終わってもほとんど何も覚えていない。
2024年の9月に行われたフェンシングの全日本選手権。女子フルーレで優勝を果たしたのが長瀬凛乃である。日本女子体育大学の1年。「大学4年間のうちに必ず全日本選手権で優勝する」と目標を立てていたから、早々に叶ったことになる。ただ、決戦前夜の心境はといえば、とにかく最悪の状況だったらしい。
「調子は全然よくなかったです」
苦い顔をして、こう話し出した長瀬だが、理由がある。彼女の種目フルーレは、24年のパリ・オリンピックの団体で銅メダルを獲得している。その団体の選手4人が、全日本選手権前にメダルを引っ提げて帰国し、他の有力選手と練習を始めたのだ。
「15点マッチで試合をするのですが、15対5以下で抑えられることがほとんどでした。代表からこぼれたメンバーにも5点以下で負けてしまう。これまで全日本ではベスト16の壁が高くて、今回はベスト8を目指すなんて言うとまた16で終わっちゃう気がしていた。だから、表彰台に上ることを目標にしていたのですが、こんな状況だったから、“もう、どうにでもなれ”って感じで試合に臨んでいったんですよね」
もうひとつ。パリでの団体の活躍をテレビで見ていたことも、長瀬を萎縮させた原因かもしれない。
「女子フルーレがメダルを獲る瞬間も見ていました。もちろん、代表の合宿などで、団体に出場した4人とはこれまでも何度も対戦していたのですが、あの瞬間を見たとき、こんな人たちと試合をしてきたのかと思ってしまった。気持ちの問題ですね。自分が同じ場所に立てているとは、まったく考えられなかったんです」
この気持ちが15対5以下という練習試合に表れたのだろう。中学2年のときに日本代表になって以降、高校のときにはいくつもの大会で優勝してきた。同世代の選手のなかでも、頭一つ抜きん出た存在の長瀬が、そこまでのプレッシャーを感じる。オリンピックという舞台はいつも、出場した選手だけでなく、その周りにいる選手たちにも、とてつもなく大きな影響を与えているのだ。
一度も勝ったことがない。自分本来の攻撃型しかない。
“どうにでもなれ”と試合に臨んだ長瀬だが、まだココロのどこかに不安な感情は残っていた。それを払拭できたのはトーナメントが始まってすぐ。2回戦で、1つ年下の高校3年生の選手と対戦したときだった。
「その選手とも、たまに練習をするんですけど、今まで10点以上取られることは少なかったんです。でも、結果は15対13。13点までは本当に競っていてけっこうギリギリまで追い詰められた。それでも勝つことができたので、もう失うものは何もないなって吹っ切れたんです。それに、残っている選手がすべて年上だったので、年下が頑張るしかない(笑)なんていう気持ちになれたんです」
そして、準々決勝で当たったのが上野優佳だ。4年前の東京オリンピックではフェンシング日本代表の最年少選手として団体6位、個人では日本女子選手最高となる6位入賞。パリ団体の銅メダリストでもある。
「最低ラインのベスト16まで来た。この壁を破るためには、上野選手に勝たなくちゃいけないと思いました。でも、今まで練習でも一度も勝ったことのない選手で……。これまでは引き気味で、ディフェンス型で試合をしていたんです。行くのにビビっていた自分がずっといて、でもこのときはそれじゃダメだって、自分本来の攻撃型にして、前に出た。それが勝ちに繫がったんだと思います」
続く準決勝は辛くも拾う。決勝はこれもパリ銅メダルの東晟良だ。
「上野選手とやったときのように、(相手に)来させずに前に行こう、ディフェンスのときも前にプレッシャーをかけようと、監督としゃべっていて、それができたのがよかった。でも、優勝したときは本当に意外で、まさか、まさかって感じ(笑)」
試合のことを冷静に話す長瀬だが、これは大会後に映像を見て振り返ったから言えたこと。実は全日本では、長い時間不思議な体験をしていた。
「2回戦目に勝ってから、ずっとゾーンに入っていたと思うんです。だから、試合が終わっても、ほとんど何も覚えてないんです。多分、攻めてたな、ぐらいで。こんなことは生まれて初めてです。後で見返したら、“私って、こんなことをしてたんだ”と思ったぐらいなんですよ(笑)」
パリの4人が出場すれば……。自分は出ない方がいい。
優勝を大学1年で決めたのは、長瀬にとって大きな出来事だろう。なぜなら、3年後のロサンゼルス・オリンピックへの道を、早い段階で自ら見つけることができたからだ。
「パリの4人が次も出れば、またメダルが獲れるって思ったんです。それぐらいすごかった。私は出ない方がいいぐらいまで考えちゃいました。でも、全日本で優勝したことで、自分にもチャンスがあると感じることができた。それがよかったです」
大会後には週に1回ではあるが、ウェイトトレーニングも本格的に行うようになった。ただ、冬は海外での試合のシーズンなので、なかなか時間が取れなかったのだが、カラダが変わってきたことは実感できた。
「ラダーを使ったり、重りを使ったり。スクワット、ベンチプレスなど本当に基礎的なところをやっています。まだ、始めたばかりですが、確実に脚は動くようになっている。踏ん張ることができるようになったと思います。あとは、左右にブレないためにも体幹も強くしたいです」
全日本選手権で優勝したことで、オリンピックへのチャンスがあると思えるようになった。
まだ19歳である。トレーニングを続けていけば、瞬発力、持久力ともに伸ばしていくことができる。フェンシングはその両方が求められる競技なのだ。また、日本代表の合宿などに参加すれば、一流選手として活躍したフランス人のコーチ2人が、長瀬のまったく知らない技術を丁寧に指導してくれる。そして、日本には世界トップレベルの練習環境が整っている。この先、どのような活躍を見せてくれるのか楽しみである。
「2025年2月にはアジアジュニア選手権、4月にはジュニア世界選手権があって、U20のカテゴリーでは最後の出場になります。まずは、ここを確実に獲りにいきたい(※アジアジュニア選手権では優勝)。その後、シニアの世界選手権がありますが、強いオリンピックメンバーがいるし、まだ代表は決まっていません。出場できたらうれしいです。ただ、まだ19歳なので、オリンピックのチャンスは2回あると思っています。3年後のロスと7年後ブリスベン。どちらもモノにできれば……、本当にそれが理想なんですけどね」